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【スポーツ茶論】オリンピックデーと笹原イズム 津田俊樹

 偉大なオリンピアンの足跡を訪ねるため、山形へ向かった。1956年メルボルン五輪レスリング・フリーフェザー級金メダリスト、笹原正三さんの故郷は、さくらんぼ狩りの観光客でにぎわっていた。目的が違うと、後ろ髪を引かれながら山形商業高校に足を運ぶ。

 「金メダルを見たことがない後輩たちのために」

 昨年10月、母校の創立100周年の節目に合わせて寄贈された逸品がガラスケースの中に飾られていた。半世紀以上が過ぎても輝きは失っていない。

 次代を担う若者にオリンピックを身近に感じてもらいたい、と手元から放した。ガラス越しからもスポーツの自立を追い求め、その実現に全身全霊をささげるレジェンドの思いがヒシヒシと伝わってくる。

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 笹原さんは29年7月、山形市に生まれた。「小柄でひ弱な少年だった」と自らを振り返っている。

 「市の北にある家から南の学校までは4キロ余り。3年になると勤労動員で、飛行機工場で働きましたが、ここも家から4キロ余ありました。それで卒業までの5年間は毎日、往復8キロ余を歩いて通ったわけです。学校では柔道、剣道、銃剣術が正課で、手榴弾(しゅりゅうだん)投げなど、配属将校が見守る軍事教練もあり、体が弱いもヘチマもありませんでした」

 「貿易をやりたいと考えて山形商に進んだのに、最初は英語がとても苦手でした。しかしある時、英訳の先生に『どの学科にしろ嫌いなものがあれば、好きになるまでやってみよう』といわれ、そこでハッと思った私は、その日からチャレンジを思い立ち、勤労動員の往復にも単語カードを1枚ずつめくりながら歩きました」=日本オリンピック委員会(JOC)ホームページ

 戦後、進駐軍で働き、生きた英語に接して磨きをかける。当時は武道が表立っては禁止されていたため、先輩からレスリングという競技を教えられ、中大に進学して猛練習に励んだ。

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