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【東京特派員】江戸っ子は将門の明神が好き 湯浅博

 その祠(ほこら)が江戸城の拡張によって駿河台、そして現在地の湯島台へと移された。維新後の明治7年、明治天皇が行幸するにあたり、将門を祭神から外して末社に移し、代わりに大洗磯前神社から少彦名命(すくなひこなのみこと)の分霊を迎えた。

 しかし、東国一帯の将門信仰は強く、当時の神田っ子は将門をけなされたことにヘソを曲げた。祭礼が近づいても誰も動かず、将門の祟(たた)りから神田祭は衰えたとささやかれた。その後、朝廷から許しが出てからは、この祭りを「赦免祭り」とも呼ぶ。将門が再び祭神に戻ったのは昭和も末のころで、名誉回復の「遷座祭」が執り行われ、氏子の願いが実現した。

 大手町にはいまも、三井物産本社近くの「将門塚」に尻を向けると、祟りがあるとの言い伝えがある。産経本社の西側の席につく人は、先輩記者から「首塚にお参りせよ」と命じられる。話半分の思いで首塚参りをする。かく言う小欄も、その一人である。

 下町っ子の典型は、もちろん神田であるが、厳密にいうと神田明神を見上げて育ったその氏子に限る。喧嘩(けんか)っ早く、陽気で気さくで宵越しの金をもたない。

 そんな土地柄だから、岡本綺堂が大正6年に「半七捕物帳」を20年にわたって書き続けた。岡っ引き、半七の縄張りが神田界隈であった。半七の妹、お粂は明神下で常磐津の師匠として母親と住んでいるという設定である。

 同じく神田を愛した野村胡堂は昭和6年、明神の周辺を舞台にした名作「銭形平次捕物控」を書いた。昭和45年に作家たちが発起人となって、社殿の右手に碑が建てられている。文字通り江戸っ子は明神さんが大好きなのだ。

 帰り際には明神下の飲み屋をのぞくのも捨てがたいが、やはり江戸末期から門前に店を構える天野屋の甘酒を馳走(ちそう)になろう。(ゆあさ ひろし)

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