PR

ニュース コラム

【朝晴れエッセー】カアサン 5月17日

 「カアサン」。そう言って無意識に右手を差し出した。それは「溺(おぼ)れるものは藁(わら)をもつかむ」といった心境だった。「大丈夫、しっかりしなさい」。そう言って握り返してくれた女房の手のぬくもりが心に染みた。

 昨年の8月、突然、病魔に襲われた。急に胸が圧迫され、吐く息はできても吸うことができず、手足が痺(しび)れた。もう駄目だと観念した。必死になって女房を呼んだ。

 驚いた女房が救急車を呼んでストレッチャーに身を委(ゆだ)ねたときの出来事だった。不思議なことだが、亭主関白そのもので生きてきたこの俺(おれ)は、女房を呼ぶのには「オイ」か「ヒロコ」の2つの称号しか使ったことがない。そんな俺がなぜ「カアサン」と呼んだのか、今もって分からない。

 医師たちの迅速な処置により意識が正常に戻ったのが午前3時ごろだった。どうやら5時間ほど、朦朧(もうろう)とした状態が続いていたらしい。目を開くとベッドの横に女房が座っていてくれた。

 「カアサン」、そう言った。「すまないな」。そう言った途端、不覚にも涙が頬(ほお)を伝った。「いいですよ、何にも言わなくて、静かにして眠りなさい。もう大丈夫だから」

 そう言った女房の顔を見たとき、俺はこの女性を女房にして50余年、どんなものを得るよりもはるかに、至高の宝物を得たんだな、とつくづくそう思った。それ以来、今日もまた、「カアサン」と呼んでいる。 今西 道男 82 奈良市

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ