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【話の肖像画】元日銀副総裁・ジャーナリスト 藤原作弥(82)(7) 新聞部には井上ひさし先輩

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仙台一高時代
仙台一高時代

 昭和21年秋、満州(現中国東北部)から日本へ引き揚げることができました。私は勉強、特に算数ができなかったせいか、本来、小学4年生なのに3年生からやり直し。新聞記者だった祖父の影響で、小学校では学級新聞づくり、中学では新聞部に入って活動にのめり込みます。

 高校は、宮城県立仙台一高。旧制中学の系譜を受け継ぎ、平成22年に共学化されるまで男子校でした。「弊衣破帽(へいいはぼう)のバンカラ」スタイルといっても、現代の若い人には分からないでしょうね。わざと汚い格好をして、それが女性にモテると勘違いしていたのです(苦笑)。

 《高校でも、もちろん新聞部。3つ上の先輩には、作家の井上ひさしさん、4つ上の部長を務めたのは俳優の菅原文太さんだった》

 井上先輩は、ちょうど私と入れ違いですが、卒業後もときどき、新聞部を訪ねて学校へ来てくれたので、知っていました。すごい読書家で、本や新聞ばっかり読んでいたという印象ですね。図書館で大槻文彦著の国語辞典「大言海」を読破したり、卑猥(ひわい)な方言の“隠語辞典”をつくったりした伝説も残っています。仙台一高の新聞部は、私の時代ではありませんが、全国のコンクールで優勝した実績もあり、なかなか本格的でした。新聞は毎月1回発行、ほかに年に1、2回、雑誌もつくりました。私はそこへ小説めいたものや、映画評論を書いたり。印刷は、福島県の地元紙に頼んだり、安いというので、宮城刑務所内の印刷所に頼んだりもしました。ネット時代になっても私が「活字と紙」に強い郷愁を覚えるのは、この時代の思い出が強いからですね。

 《大学は、東京外国語大学のフランス科》

 何しろ、数学ができない、家が貧乏…。消去法で1浪して入りました。後に「モンゴル会」で知り合った作家の司馬遼太郎さんが、同じ理由で大阪外国語学校(現大阪大)に入られたと聞いて、「私だけじゃなかった」とうれしく思ったものです。

 下宿は横浜の叔父のところにいたのですが、やがて外国人専門、日本人オフリミットのバー街の2階に移りました。元「青線」(私娼街)地域、通称「親不孝通り」と呼ばれた、横浜でも、かなり“怪しげな”場所です。バーの客は、在日米軍の軍人や外国船の船員。私は、アルバイトでバーの女性に英語を教えたり、塾を開いたり、近くにあった暴力団の事務所にも出入りしたり、毎日、女のコに囲まれて酒ばっかり飲んでいるような自堕落な生活を送っていました。そっちが楽しくて、(アルバイトで)忙しいので大学には行かない。当然、成績はボロボロで1年落第…。成績にはまったく自信がないため「試験で一発逆転」とばかりに、就職先はマスコミ1本に絞ることにしたのです。

 《合格した時事通信の他に大手新聞は最終試験で不合格。聞けば、興信所が下宿まで調べにきて「素行不良」と判断されたらしい》

 どうやら、バーの女性と同棲(どうせい)していると勘違いされたようです。大手出版社にも受かったのですが、芸能週刊誌の記者という条件。後から、そっちへ行けばよかった、女優さんと仲良しになれたのになぁって(苦笑)。(聞き手 喜多由浩)

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