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【文芸時評】2月号 早稲田大学教授・石原千秋 現代のマウンティング競争

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 統計ほど恐ろしいものはない。厚生労働省のことを言っているのではない。重大事だが、政府や官庁が統計をごまかすのはいまにはじまったことではない。しょせん権力とはその程度のものだ。

 統計をとるためには対象を分類しなければならない。その意味を突き詰めて考えたのがミシェル・フーコーだったと、重田園江は言う(『統治の抗争史』勁草書房)。人口統計が、他の生き物の中にあって「ヒトという種」でしかなかった僕たちを「人類」に仕立て上げたと言うのである。人類に下位分類を施せば、人口統計は差別を生み出す装置となる。白人、黒人、アジア人などなどである。

 しかし、こうした統計が国の施策を決定することも事実だ。岩田正美『現代の貧困』(ちくま新書)は、筋金入りの近代国家だった(最近はどうも怪しい)イギリスが、早くから貧困を数値化して救貧院などの福祉施設を充実させてきたと指摘している。その様子はディケンズ『オリバー・ツイスト』に活写されている。その困難を知っていた日本政府は最近まで貧困の定義をしなかった。統計の回避と言うべきか。定義すれば数値化され、救済が求められるからである。この本から多くのことを教えられたし、統計がなければ福祉政策も立てられない。それでも心の中では、大学院生時代に恩師の高田瑞穂先生が折に触れて口にした「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」(『アンナ・カレーニナ』中村融訳)という言葉が鳴り響いていた。統計は個を数にしてしまう。だから、文学から言えばこうなる。「統計学が最悪の学問である」と。

 時計の針をひと月戻そう。

 落合陽一と古市憲寿の対談「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」(文学界1月号)。特に古市憲寿の、後期高齢者の「最後の一ヶ月の延命治療はやめませんか?」発言はもう十分に批判されたようだから、繰り返さない。問題は、この発想がどこから出てきたかにある。この発言の少し前。落合陽一が「議員さんや官僚の方々とよく話しているのは」と後期高齢者の医療費を語り、僕だってとばかりに古市憲寿が「財務省の友だちと、社会保障費について細かく検討したことがあるんだけど」と言い始めて、先の発言になる。こういう人間関係をひけらかしてあたかも天下国家を語っている気分になるのが嬉(うれ)しい年頃なんだろうとは思いつつ、議員や官僚の統計をもとに発想していることの恐ろしさに無自覚のように見えるのが恐ろしい。国の統計は「統治」するためのものである。そこに個はないし、「最後の一ヶ月」の重みもない。いまこの2人はそういう位置から発想しているようだ。それが悪いとは言わない。ただし以後、僕はこの2人を政府や官僚のスポークスマンとしてしか見ないだろう。

 今月の仕事をしよう。

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