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【宮嶋茂樹の直球&曲球】「太く短く、自分がやりたいように生きた」勝谷誠彦氏

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勝谷誠彦さんの告別式で掲げられた遺影=11月29日
勝谷誠彦さんの告別式で掲げられた遺影=11月29日

 勝谷誠彦(かつや・まさひこ)氏との初めての出会いは衝撃的であった。「日本の方か?」「アンタも例の件で?」。昭和61(1986)年、20年も続いたフィリピンのマルコス大統領の独裁政権が倒れた政変の後のこと。そして、そのときも酒を介してであった。マルコス大統領がハワイへ亡命した後、主のいなくなったマラカニアン宮殿に人民とともになだれ込んだカメラマンの中に不肖・宮嶋はいなかった。世界中が注目した政変の最中に、不肖・宮嶋は前妻の薬指に指輪をはめ、牧師の前でかりそめの愛を誓っていたのである。

 政変後に誕生したアキノ政権も一向に安定せず、軍のクーデターやテロ事件も頻発、揚げ句、当時の三井物産マニラ支店長の日本人が共産ゲリラ一派に誘拐され、身代金を要求されるという事件まで発生。そんな当時のマニラに巣くう若い記者やカメラマンの中に、不肖・宮嶋と勝谷氏もいたのである。

 ただ2人の違いは、不肖・宮嶋がフィリピン政変後、写真週刊誌の専属カメラマンを辞め、あわててマニラへ駆け付けたものの、ろくな手柄も立てられず、毎日ぶらぶらしていたのに対し、勝谷氏は、マニラで白タクの会社を経営するばかりか、そのとき、風俗ライターから文芸春秋の社員編集者に転身。同社から創刊された写真週刊誌で八面六臂(ろっぴ)の活躍をされていた。そんな2人が当時、東洋最大といわれた歓楽街のゴーゴーバーに偶然、腰を下ろしたのである。腰をくねらせて踊るネエちゃん越しに、ガンの飛ばし合い。腹の探り合い。結局閉店まで話し込んだ。

 2年後、縁あって週刊文春編集部にわらじを脱ぐことになった不肖・宮嶋はそこで再び勝谷氏と相まみえたのである。最初は1990年代の湾岸戦争。1人1万ドル(当時約150万円)の取材費を持たされ、まるで出征兵士のように見送られて国を出た。2人で北朝鮮へ潜入したこともある。

 今回の訃報は早朝、人づてに知らされた。タチの悪い「ガセ」と信じていた。葬儀で喪主の弟さんはこう述べた。「太く短く、自分がやりたいように生きた」と…。

                   

【プロフィル】宮嶋茂樹

 みやじま・しげき カメラマン。昭和36年、兵庫県出身。日大芸術学部卒。写真週刊誌を経てフリーに。東京拘置所収監中の麻原彰晃死刑囚や、北朝鮮の金正日総書記をとらえたスクープ写真を連発。新刊写真集に『鳩と桜 防衛大学校の日々』。

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