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【日曜に書く】やがて悲しき東京五輪 論説委員・別府育郎

東京オリンピック・マラソンで先頭集団を形成するアべべ(左・17番)と円谷幸吉(右・77番)=1964年10月21日、東京都新宿区
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 54年前の昭和39年10月21日は東京オリンピックの開会中だった。24日の閉会式に向けて、競技は佳境にあった。当日のサンケイ新聞夕刊は、1面を全てマラソンの記事で埋めている。

マラソン

 午後1時、国立競技場をスタートし、17キロ付近でスパートしたエチオピアのアベベ・ビキラがそのまま先頭を駆け、ローマ五輪に続く連覇を達成した。

 夕刊は、こう書き出す。《アベベは、まるでトレーニングにでもでかけたような顔をして帰ってきた。その細い黒いからだが国立競技場南口ゲートにおどりこんできたとき、競技場は、ちょうどふくらんだゴム風船に火がついた線香をつっこんだ感じで爆発的にハゼかえった》

 2位で競技場に入ったのは円谷幸吉。だがトラックの第3コーナーで、英国のヒートリーに抜かれた。《円谷がゴールにとびこんだ。競技場は大へんなさわぎ、そのなかをゆっくりとトラックからフィールドに足をはこんだ。しばふの上にぐったりと横たわり、大の字になった。その上に毛布がかけられた。四秒、五秒。毛布をかぶった肩が大きく波うっている。泣いているのだろう。むっくりと起き上がった円谷の上に、また、あらしのような拍手が降った》

 翌日の朝刊には、レース後の2人の表情がある。4年後の五輪に向けてアベベは「メキシコではツブラヤと一緒に走ってボクが一位、ツブラヤは二位になる」と宣言し、これを聞いた円谷は「このつぎはかならずアベベに勝ちます」と反発した。

 両雄の思いは実現しない。アベベはメキシコ五輪のマラソンで途中棄権し、半年後の交通事故で下半身の自由を失う。なおも障害者スポーツに挑むが、41歳で病死した。円谷はメキシコを前に、「幸吉は、もうすっかり疲れ切って走れません」の遺書を残し、自ら命を絶った。

 銀メダルのヒートリーは平成26年、福島県須賀川市の円谷の墓に参った。そして円谷の兄に「なぜ表彰台で円谷さんと話さなかったのだろう。ゆっくりと話す時間があれば」と悔やんだのだという。

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