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【正論】戦後73年に思う 明治の意義顧みるメッセージを 国学院大学名誉教授・大原康男

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 政府は「明治百年」の行事を「国家的規模において盛大に執行する」ことを閣議決定し、昭和43年10月23日に日本武道館において「明治百年記念式典」を挙行したが、社会・共産両党は「政府が特定の史観を押しつけるもの」と批判して式典を全面的にボイコットしたのである。

 一方、民間右派団体は政府に対抗して「明治維新百年」にこだわった。それは「明治維新百年祭」を政府の式典より早く「五箇条の御誓文」の発布の日である3月14日(旧暦)に斎行したことで、素志を貫徹したと言ってよいだろう。

 話を「明治維新百五十年」に戻すが、先記した「取組状況」から感じられるのは、各論的なテーマが圧倒的であり、政府の基本的な考え方も総論としては通り一遍の無難なものにとどまり、この点にいささか不満を覚えたので、あえて卑見を呈したい。

 ポイントは2つである。1つは維新政府が置かれた内外の厳しい環境である。まず、欧米列強による侵略の脅威が依然、潜在し、幕府が5カ国と結んだ不平等条約の桎梏(しっこく)が独立国としての基盤を著しく損ねていた。その上に、いまだ攘夷(じょうい)を唱え、旧例を墨守しようとする攘夷派と文明開化路線を急速に推進しようとする開明派との対立は続発するテロの土壌となって熾烈(しれつ)な政争を生み、続発する農民一揆や相次ぐ地方の争乱は政府への信頼を揺るがすものであった。

 それに加えて地租に頼りきりの税収、石炭や硫黄・石灰石以外に天然資源が乏しい上に、外貨を獲得するための輸出品目も限られ(絹製品・漆器・茶・米など)、国家財政の脆弱(ぜいじゃく)さはあらゆる面で政策推進の足かせになっていた。このような幾重ものハンディキャップを背負いながら、政府は敵前架橋よろしく大急ぎで近代化を進めねばならなかったのである。

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