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終戦の日に 73年後の「英霊に詫びる」 陛下の靖国御親拝に知恵出すとき 論説委員長・乾正人

 靖国神社で黙とうをする大勢の人たち=15日正午、東京・九段北
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 平成最後の8月15日である。

 終戦の翌日、われわれの先輩は、本紙1面に「英霊に詫(わ)びる」と題する社説を書いた。

 「私達(たち)もよく闘ってきました」で始まる記事は、「敵の空爆は日に夜につぎ、家を焼かれ財を失い、血肉親身の数々を亡くして」もなお頑として闘い抜き、「かくなる上は祖国とともに一億国民すでに玉砕の覚悟を決めていた」と記している(昭和20年8月17日付)。

 73年前の夏、日本は国家滅亡の瀬戸際まで追い込まれていた。

 8月6日、広島に原爆が投下され、9日には長崎が灰燼(かいじん)に帰し、日ソ中立条約を破ってソ連軍が突如として満州に侵攻した。

 ≪全長10キロの大本営地下壕≫

 軍部は本土決戦を主張し、準備を着々と進めていた。

 サイパン島陥落を受け、19年11月から突貫工事で長野県松代の山中を碁盤の目のようにくりぬき、総延長10キロに及ぶ地下壕(ごう)を極秘裏に造っていた。

 戦争を指導する大本営や主要官庁、NHKを東京からそっくり移そうとしていたのである。もちろん天皇陛下の御座所(ござしょ)も造っており、8割方できあがっていた。今も残る跡地のうち、象山地下壕は入り口から500メートルまで見学できる。内部の空間は意外に広く、頑丈にできており、「一億玉砕」がただのスローガンではなく本気であったことが、ひしひしと伝わってくる。

 降伏か、本土決戦か。

 20年8月10日未明に開かれた御前会議は紛糾し、昭和天皇の御聖断によって、日本に降伏を要求したポツダム宣言受諾が決まった。

 「敵の上陸も決して恐ろしくはありません。新型爆弾も甘んじて受けます」と終戦後も意気軒高な本紙社説も、昭和天皇の御聖断を受けて「これほどの闘魂も陛下の御仁慈には挫(くじ)けてしまいました」とあっけないほどに矛を収めている。

 終戦時に11歳の皇太子(今上陛下)は、空襲を避けるため学習院初等科の学友たちとともに、日光田母沢御用邸からさらに奥の、日光湯元温泉に疎開されていた。

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