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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(18)キリスト教と音楽家の平壌 金日成や永田絃次郎の足跡

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 ◆和風の家にオンドルも

 日本人にとって平壌はどんな街だったのか。日本統治時代末期の昭和17年の人口統計によれば、平壌府の人口約39万のうち、日本人は約3万2千人。

 祖父の代に朝鮮へ移り住んだ大澤昭夫(87)は6年、平壌生まれ。終戦時は平壌一中(旧制)の3年生、同級生には、陸軍中将の息子や父親が高級官吏である朝鮮人もいた。自宅は和風で畳だが、朝鮮風のオンドル(床暖房)の部屋もあった。冬になるとスケートを楽しみ、凍った大同江(平壌の中心を流れる川)を滑ってゆくと中学まで5分で行けたという。

 「自宅のすぐ近くが朝鮮人の集落でよく一緒に遊んだ。とにかく“同じ日本人”という感覚しかないんだなぁ。隣の病院の女医さんも朝鮮人でキレイな人だった。向かいは、おいしい平壌冷麺の名店でしたね」

 戦争が始まると、中学生も空襲警報などの連絡要員などとして動員され、大澤は「賑(にぎわい)町」という遊郭がある地域の担当となった。「朝鮮人や日本人の娼妓がいて、よくお茶を飲みにいって、お喋(しゃべ)りしましたよ。みんな明るくてね」

 思い出の中には、朝鮮人と反目したり、ましてや「少女を強制連行して慰安婦にした」などという行為はまるで出てこない。

 後年、大澤が観光ツアーで平壌を再訪したとき、懐かしい街はすっかり様変わりしていた。そこで不思議な出来事に巡り会う。「われわれのグループが食事中、ひとりの女性に、よど号乗っ取り事件の犯人と名乗る男が接触してきた。『子供を日本へ帰したいので身元引受人になってもらえないか』という。怖くなってテーブルから離れましたけどね…」

 空港から市内へ向かう道ではあの巨大なモニュメントを通った。ガイドは、「金日成将軍様が凱旋されたところに建てられたものです」と恭しく説明したという。 =敬称略、土曜掲載 (文化部編集委員 喜多由浩)

●=吉を2つヨコに並べる

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