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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(17)京城はなぜ100万都市に 「泥濘」から発展した日本人街

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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(17)京城はなぜ100万都市に 「泥濘」から発展した日本人街

 再び加藤の筆に頼ろう。《(日本人居留地の)家屋は西洋作もあり日本風の二階屋もあり、店は広く小奇麗(ぎれい)に往来繁(しげ)く…日本人の移住する者年毎(ごと)に増加し…明治38年4月の人口は6296人なり…》(同)

 日本人街には、三越、丁子屋(ちょうじや)、三中井(みなかい)といった百貨店が進出、ホテルやレストラン、カフェ、映画館が次々と開業した。モダンガール・ボーイと呼ばれた、おしゃれな若者たちが押し寄せ、中心の繁華街・本町で遊ぶことを、東京や大阪の“銀(座)ブラ”“心(斎橋)ブラ”になぞらえて「本ブラ」と呼んだ。

 父親が朝鮮総督府の建築技師などを務めた正木千代子(91)は、昭和2年京城生まれ、高等女学校を卒業した後は、京城の中心地にあった水産会社に就職している。「本町は内地にも負けない賑(にぎ)やかな繁華街でね。三越、丁子屋などの百貨店にも、よく買い物に行きました。休日はレコードを聴いたり、昌慶苑の桜見物も覚えている。(終戦までは)物資は豊かだったし、空襲もない。ホントにいい街でしたよ」

 清渓川北側の朝鮮人の居住地にも、朝鮮人経営による和信百貨店ができたが、鐘路を中心とした伝統的な商店などは次第に廃れてゆく。朝鮮人の若者たちも、流行の先端で、小ぎれいな日本人街に足を向けるようになったからだ。

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