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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(17)京城はなぜ100万都市に 「泥濘」から発展した日本人街

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 日韓併合前の明治38(1905)年、ジャーナリストで後に貴族院議員を務めた加藤政之助(まさのすけ)がこの街を綴(つづ)った一文がある。《大通だけは比較的に清潔なりき、ただし市街の裏通りに至りては道幅8、9尺(2メートル半前後)、車馬通せざる所もあり、下水及(およ)び塵芥(じんかい)の腐敗により起こる臭気鼻を衝(つ)いてきたり…城内の見るべき建築物は、景福及び昌徳の二宮、日本の兵営、列国公使館位(くらい)に過ぎず》(『韓国経営』から)

 京城の電気や水道、市内電車を初期に手掛けた欧米人から事業を引き継ぎ、数度の都市計画を経てインフラ(社会資本)を整備し、モダンな大都市に変身させたのは日本人だった。

朝鮮人が敬遠した土地

 19世紀末、日本人がこの街に住み始めたとき、最初の居留地となったのが、南山北麓の「泥●(やまへんに見)(チンコゲ)」と呼ばれた所だ。文字通りの低湿地で雨が降れば南山から水が流入し、泥濘(ぬかるみ)になってしまう。朝鮮人もあまり住んでいない地域だった。

 この土地を日本人はせっせと改良して道路をつくり、住宅や商店、公的機関を建てた。そこを起点に本町(後の忠武路(チュンムノ))、明治町(明洞(ミョンドン))といった繁華街が広がり、市内を横断する清渓川の南側は日本人、北側は朝鮮人の街として色分けされてゆく。

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