PR

ニュース コラム

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(2)創氏改名は「強制ではない」 是々非々貫いた朝鮮人検事

Messenger

 開かれた高等教育

 当時、朝鮮人の初等教育は、寺子屋にたとえられる書堂(ソダン)が主だった。日韓併合直後の明治44年の統計によれば、朝鮮人が通う普通学校(小学校)が173校(児童数2万121人)に対し書堂は1万6540校(同14万1604人)。それが昭和8年には普通学校2100校(同56万1920人)▽書堂8630校(同14万2668人)と児童数で逆転している。

 法律や医学の高等教育機関である専門学校は明治44年に5校(学生数409人)だったが、昭和8年には15校(同3785人)へと急増。1校もなかった大学は京城帝大が創設(大正13年予科)された。

 大和田は、地元の普通学校→京城の高等普通学校(中学)→官立の京城法学専門学校と進み、京城帝大はまだ開設されていなかったため(学部は大正15年設置)、朝鮮から最も近い帝国大学である九州帝大法文学部法律学科へ進学した。

 高等試験司法科に合格した大和田は、検事の道を選び、光州地方法院検事局・長興支部検事(昭和14年)→新義州地方法院同(15年)→平壌覆審法院同(18年)と検事として順調に出世の階段を上る。朝鮮人の司法職員数も、明治44年・364人→昭和8年・1232人へと増加した。

 朝鮮人に高等教育の機会が開かれ、法を司(つかさど)る検事や判事(裁判官)のポストに就くことができたことは注目すべきであろう。

続きを読む

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ