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【正論】雰囲気「迎合」が言論の衰退招く 青山学院大学特任教授・猪木武徳

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【正論】
雰囲気「迎合」が言論の衰退招く 青山学院大学特任教授・猪木武徳

 最近「ヘイトスピーチ」という言葉をしばしば耳にする。強い憎悪の感情を込めた差別的な発言を意味する言葉だ。憎悪も差別も人間の人間に対する感情であるから、正確な定義は難しい。人種、宗教、性などに関する「少数派」への差別的言説一般を指すと大ざっぱに理解されているのが現状のようだ。

 ≪ヘイトスピーチをめぐる対立≫

 先月、宗教的象徴を軽侮するような漫画と文章が悲惨な殺戮(さつりく)を招く事件がフランスで発生し、「言論・表現の自由」とは何かが改めて問われるようになった。

 こうした事件は日本にとって無縁な遠い国の話ではない。昨年8月末、国連の人種差別撤廃委員会は日本政府に対して、日本は「ヘイトスピーチ」に毅然(きぜん)とした態度で対処できるよう法制を整えるべきだとする「最終見解」を公表した。1995年に人種差別撤廃条約に加盟した日本が、いまだ外国人労働者への差別や人種差別デモなどに対して無策だと言うのだ。

 何が「ヘイトスピーチ」となるのか、どのような憎悪や差別感情の表出を「ヘイトスピーチ」とみなすのかについて、紛れのない判定基準が存在するわけではない。

 この基準をめぐって、2つの倫理観が対立してきた。ひとつは、デモクラシーのもとで国民が必要とする言論の自由、表現の自由の価値とその保証を重視する立場。もうひとつは、「ヘイトスピーチ」によって社会的少数派が受ける被害を強調する立場である。

 前者は古典的な自由主義思想をベースとしている。つまり言論を自由にしておくことで得られる社会全体の利益を長期的に見ると、「憎悪」の対象となった犠牲者が払うコストは致し方ないと考える。後者は「ヘイトスピーチ」の犠牲者の人権を重視し、法規制を強く求める姿勢である。

 後者のヒューマニスティックな見解がわれわれ日本人には自然に映るが、欧米では歴史的に前者が主流となってきた。

 フランスの新聞社襲撃事件でも、テロを糾弾する世論は前者の立場を取り、300万人以上の人々が「わたしはシャルリー」というプレートをかざしてフランスでデモを行った。米国でも、大学内での「ヘイトスピーチ」を処罰の対象とするキャンパス・コードが裁判で争われ、違憲判決が出た例が多い。

 ≪「不平等性」と「匿名性」≫

 問題は、これら2つの立場のバランスをいかに取るのか、その妥協点をいかに探るかに尽きる。それは「自由」と「平等」のジレンマと同じタイプの難問であり、唯一の正解があるわけではない。いくつか答えがあったとしても、いずれもケース・バイ・ケースの不安定な妥協解でしかない。

 ではなぜ、「平等」が問題となるのか。「言論の自由」を権利として主張するものと、その言論の犠牲となるものの間に「社会的な力の不平等」が存在するからだ。

 人種差別的デモに法的規制を求める国連の人種差別撤廃委員会は、「憎悪」の対象は社会的少数者であるから、特にその「不平等性」は大きいと見ている。

 そもそも、デモは集団でおこなわれ匿名性が強い。インターネットでの「ヘイトスピーチ」も、その影響力の強さと広さから考えると、社会的少数者には暴力同様、あるいはそれ以上の被害をもたらしかねない。古書に言う「ムチの一打は傷をつくらん、舌の一打は骨を砕かん」である。

 デモのように、大勢であるがゆえに生まれる「匿名性」は、言論への責任を避け、「何を言っても構わない」という無節操な気持ちを刺激する。一旦この気持ちに火がつけば、対象への憎悪感はさらに増幅される。匿名性は公的なメディアで発言する者への悪意ある批判を誘発することもある。

 ≪恐ろしいのは「自己検閲」≫

 もちろん逆に、少数の暴力的な集団が多数の普通の社会生活を送る人々を脅す例もある。また、国家による言論統制も警戒する必要があろう。ただし、「言論の自由」は、国家は悪だという前提から、国家権力の不当な圧迫を警戒すれば事足れり、といったものではない。

 同じく用心すべきは、はっきり意識されないまま、社会が醸し出す「空気」によって言論の自由が侵される危険だ。異論を唱えにくい雰囲気が、「正義」の装いをまとって国民を知らず知らずのうちに思わぬ方向へと誘い込んでしまうことがあるのだ。

 恐ろしいのは、合法的な仮面をかぶった専制精神だ。「世論」とそれに迎合するメディアが、いつの間にか「力ある立場の人」の意向を忖度(そんたく)し、その反応を事前に予想して、自ら進んで「自己検閲」をしてしまうことだ。

 このような多種多様で錯綜(さくそう)した「言論の自由」の問題点を、粘り強く識別し、「その言葉さえ使わなければ、問題は解決される」という考えに陥りがちな言論界の衰弱を防がなければならない。感情の問題に感情的に対抗し、単純な極論だけが大手を振ることは何としても避けねばならないのだ。(いのき たけのり)

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