【論壇時評】12月号 「やりっ放し教育改革」脱するために 文化部・磨井慎吾 - 産経ニュース

【論壇時評】12月号 「やりっ放し教育改革」脱するために 文化部・磨井慎吾

英語民間試験の延期について会見する萩生田光一文部科学相=1日、東京・霞が関の同省(古厩正樹撮影)
 来年度から始まる大学入学共通テストに関し、導入予定だった英語民間検定試験の実施見送りが先般発表された。
 見送りの直接のきっかけは、先月下旬にテレビ番組に出演した萩生田光一文部科学相が、同試験で居住地域や経済状況によって受験機会に格差が生じるとの懸念を向けられたのに対し、「裕福な家庭の子が回数を受けてウオーミングアップできるみたいなことは、もしかしたらあるかもしれないが、自分の身の丈に合わせて勝負して頑張ってもらえれば」と発言したことが“炎上”したからではあるが、もともと教育関係者からはきわめて批判の多い改革だった。同試験への批判をかねて行ってきた言語社会学者の寺沢拓敬が指摘(「大臣の『身の丈』発言の炎上のせいで民間試験導入は『延期』になったのか?」ヤフーニュース個人、11月5日)するように、「身の丈」発言自体も問題といえばもちろん問題なのだが、この発言から事態が始まったというよりは、不満のガスが充満する中で、最後の着火役を演じた形というのが正確なところだろう。
 さて論壇誌に目を移すと、新試験批判の急先鋒(せんぽう)を務めた英文学者の阿部公彦の寄稿「ぺらぺら信仰がしゃべれない日本人を作る」をはじめ、改革を問題視する特集を直近に組んでいたのが中央公論(8月号)。さすがにここまでの事態急変は予想していなかっただろうが、政官界に読者の多い同誌の特集が、この改革への疑問の醸成と政策転換について何らかの影響を及ぼしたことは考えられなくもないだろう。媒体数も各誌部数も減り続け、年々苦しくなる論壇誌がアジェンダ形成という本来の役割で責任を果たす例として、あえて記しておきたかった次第である。
 同誌の今月号特集はまた教育改革もので、題して「国語の大論争」。中心となるのは、新学習指導要領に基づく高校国語の科目再編で、選択科目として「論理国語」と「文学国語」が新設される件だ。
 高校国語教科書の編集にも携わる文芸評論家の伊藤氏貴「『論理国語』という問題」は、議論紛糾しているこの改革の経緯を紹介しながら論点をクリアに整理する。そもそも今回の改革の背景にあるのは、ひとつが各国の15歳を対象とした国際学習到達度調査(PISA)で、日本の子供の「読解力」の順位が2000年代に入って低下したという「PISAショック」。もうひとつが人工知能(AI)研究者の新井紀子が独自調査で提起した、AIに仕事を奪われるという観点での日本の中高生の読解力低下への警鐘(「AIショック」)だ。
 だがPISAに関しては2010年代に入って順位の上昇が認められるし、AIについては新井の調査とその結論の妥当性について伊藤は疑問を向ける。若者の読解力が低下しているとは簡単に判断できないし、そもそも文学作品を単なる感覚ではなく論理的に読解することが教科としての国語の意義の一つであるのだから、「論理国語」と「文学国語」を排他的関係に設定すること自体がおかしい。そう伊藤は指摘する。
 英語にせよ国語にせよ、改革の根拠があやふやならば、コストに見合う効果が生まれるかは怪しい。そもそも日本の教育行政には、やたらに改革を好む割にデータに基づく政策効果測定がないという根本的欠陥があるのではないか。教育社会学者の松岡亮二は、「私が最も気になるのは、制度を変更する前に、きちんとした『データ取得計画』が作られていないことです。これは『改革を実行する』こと自体が目的であって、そもそも効果を検証するつもりがないことを意味します」(「萩生田大臣『身の丈』発言を聞いて『教育格差』の研究者が考えたこと」「現代ビジネス」11月3日)と指摘する。
 松岡は近著『教育格差』(ちくま新書)で、日本は国際的に見ると「凡庸な教育格差社会」であり続けたと緻密に実証して注目を集めた。戦後のどの時点を見ても、居住地域や親の学歴および収入による子供の教育格差ははっきり存在しており、乳幼児期に始まる「身の丈」の差を、日本の小中高教育はずっと縮めることができなかった。だが、今後もそれでいいのか。
 「『身の丈』に合わせてしまったせいで、低SES(社会経済的地位)家庭の生徒・地方出身者が、自身の可能性を追求できないことは、社会としても非効率です。ただでさえ少子高齢化で子供の数が減っているわけで、恵まれた家庭出身・都市部出身者の中『だけ』から各分野を将来牽引(けんいん)する人たちが出てくることを期待するのは、とても効率が悪いわけです」。日本社会の強化にもつながる格差改善のために、松岡はまず専門家と行政が協力したデータ取得から始めるよう説く。迂遠(うえん)に見えるが、延々と繰り返される「やりっ放し教育改革」を脱するためには、これしかないだろう。
 このほか、ゲンロン10の東浩紀「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」が出色だった。中国・ハルビンにある旧陸軍731部隊の跡地を訪ねた体験を素材とした哲学的エッセーで、掲げる問いは「ひとはなぜ、かくも高い知性をもち、かくも豊かな感情を備えながら、かくも残酷で愚かな悪をなしてしまうのか」。20世紀の大量死をめぐり、人間を数値化して固有性を奪う収容所的暴力と、犠牲者の固有性を回復させ追悼しようとする博物館の対立図式に、団地という東ならではの第3の視点を加え、三項鼎立(ていりつ)の思索へと読者を誘う。自ら「哲学でも批評でも紀行文でもない」と銘打つアカデミズムにもジャーナリズムにも属さないその文体は、元来「何でもあり」を特徴としてきた総合雑誌(論壇誌)の持つ新たな可能性も感じさせる。=敬称略