(101)清湖口敏 ギオンは擬音? 地域限定で生きる「祗園」

国語逍遥
パソコン画面に出てくる「祇園」の変換候補

 『●東綺譚(ぼくとうきだん)』『つゆのあとさき』など永井荷風の作品群をほぼ40年ぶりに読み返している。

 若い頃に読んだときは、作品中に出てくるおびただしい数の東京の地名に大きな戸惑いを覚えたものである。ずっと大阪で暮らしてきた私にとって、千住、言問など古典でもなじみのごく少数を除けば、大半がチンプンカンで、砂町、亀井戸、白髯(しらひげ)橋、葛西、向島、洲崎、千駄木(せんだぎ)町…ときた日には、まるで迷宮に踏み込んだも同然だった。

 東京へ移って10年余。主な作品の舞台の地もあらかた逍遥し終え、ならばここらでもう一度と、荷風を読み始めたのである。

 地理的なイメージが鮮明になったためか、それとも馬齢を重ねて少しは男女の機微も分かるようになったためか、『●東綺譚』は初めて読んだときよりも格段に面白く感じられた。

 思わぬ成果も得た。「作後贅言(ぜいげん)」と題された一章で「●」の字の由来を教えられたのである。以前はきっと読み飛ばしていたのに違いなく、件(くだん)の章は全く記憶に残っていない。東京の地名に食傷していたとはいえ、いかに散漫な読書態度であったかを今更ながら思い知った次第である。

 その作後贅言にはこうある。「向島寺島町に在る遊里の見聞記(けんもんき)をつくって、わたくしは之(これ)を●東綺譚と命名した。●の字は林述斎が墨田川を言(いい)現(あらわ)すために濫(みだり)に作ったもので(中略)文化年代のことである」。つまり●は、中国渡来の漢字ではなく、日本で創作された和製漢字、すなわち国字であるというのである。

 広辞苑も「ぼくとう(●東・墨東)」の項で「今の東京都墨田区一帯、すなわち隅田川中流東岸の雅称」の語義とともに、「●は墨田川の意。江戸時代、林述斎の作字という」と解説している。作後贅言の一節に依拠したものか。

 荷風が教えるように●が墨田川を表し、墨田川の一部流域だけで使われる地域限定の漢字だとするなら、これはけだし「方言文字」と呼ぶべきで、『日本語百科大事典』(大修館書店)も「方言文字は主に地名に見られる地方独特の漢字の字体」と説明している。

 『国字の字典』(東京堂出版)をひもとけば、圷(あくつ)、垳(がけ)、▲(はけ)、▼(さこ)、墹(まま)、垈(ぬた)、汢(ぬた)、◆(なぎ)、逧(さこ)、閖(ゆれる)…と、地域性の強い文字が国字の中にごろごろ存在していることがあらためて理解される。これらの中からいま圷、▲、閖の3字について同字典の解説を要約し、示したい(地名は現在のものと一致しない場合もある)。

 【圷(あくつ)】茨城県久慈郡金砂郷村圷。由緒は定かではないが、当地方で通常、河川に近い低地を圷(あくつ)という。

 【▲(はけ)】埼玉県狭山市旧堀兼村字▲下(はけした)。東京の周囲から東北にかけて丘陵山地の片岸を「はけ」という。「関東ロームの層が赤いので、この字を当てはめたものと思われる」(埼玉県立浦和図書館)

 【閖(ゆれる)】宮城県名取市閖上(ゆりあげ)。昔、仙台の藩主が大年寺に参拝し、山門内から望んだ浜の名を近侍の者に尋ねた。「『ゆりあげはま』でございます」と申し上げると「文字はどう書く」。「文字はありません」と答えると藩主は「門のうちから水が見えるゆえ、今後は門の中に水と書いて閖上(ゆりあげ)と呼ぶようにせよ」。こうして仙台藩専用の閖ができたという(名取市史から)。

 国字にまつわる由緒の一々が、私の興味をそそってくれる。

 ところでここまでは国字の中の「方言文字」を見てきたが、中国由来の漢字でありながら、わが国では特定の地域だけで使われているといった例もある。

 「祇園(ぎおん)」は京都の八坂神社付近の地名としてよく知られるが、インターネットのフリー百科事典「ウィキペディア」には「祇園」が付く全国の地名23カ所が列挙されている。その中で唯一、「祇園」ではなく「祗園」と書かれたところがある。川崎市中原区の「木月祗園町(きづきぎおんちょう)」である。

 えっ、どこが違っているのかとご不審の方もおられようか。とくとご覧を。木月祗園町の「祗」だけが旁(つくり)(氏)の下に横棒が付き、「○」になっている。ちょうど「底」や「低」に見られる「○」と同形である。

 日本郵便が発行する郵便番号簿でも確認してみたところ、やはり「木月祗園町」と書かれてあった。

 祗は祇と似てはいるものの、全くの別字で、祇の音がギであるのに対し、祗はシである。だから祗園はシオンと読むほかない。

 市販の国語辞典や漢和辞典には、ギオンに祗園の字をあてるものはさすがに見当たらないが、厄介なのは、パソコンやスマートフォンに搭載されている漢字変換辞書の中に祗園を載せるものがあることである。「ぎおん」と打って漢字変換させると、祇園や擬音などに交じって祗園も候補語として出てくる。

 祗園がギオンとは、これこそ“擬音”いや“偽音”なのだが、考えてもみれば国語の世界では誤字誤用が幅を利かせ、さらには悪貨が良貨を駆逐するような例だって少なくない。国語の森を逍遥するうちに、突如としてそんな例に出くわしたりすると、私はもううれしくてたまらない。国語はやっぱり面白い!

 小欄の連載は今回をもって終了します。勝手気ままな「逍遥」に長らくお付き合いくださり、ありがとうございました。

●=さんずいの右に黒の異体字の下に土

▲=土へんに赤

▼=土へんに谷

◆=さんずいに和

○=砥の石を削除