【正論】古代の回顧を精神再興の礎に 文芸批評家・都留文科大学教授・新保祐司 - 産経ニュース

【正論】古代の回顧を精神再興の礎に 文芸批評家・都留文科大学教授・新保祐司

文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司氏
 ≪「神武東征」をしのぶ明石海峡≫
 7月中旬、「正論」洲本講演会で講演をするために初めて淡路島に行った。この講演が決まってからとても楽しみにしていた。淡路島は『古事記』に「淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)」として書かれ、「大八島国」で最初に生まれた島であるから、一度はその地に立ってみたいと思っていたからである。
 また近来、交声曲「海道東征」の意義についていろいろなところで語っている私としては、神武天皇の東征と縁のある明石海峡を車で渡ることに特別の思いがあった。『古事記』には「故(かれ)、其の国より上り幸でましし時、亀の甲(せ)に乗りて、釣為(つり(し)つつ打ち羽挙(はふ)り来る人に、速吸門(はやすひのと)に遇(あ)ひき。爾(ここ)に喚(よ)び帰(よ)せて、『汝(な)は誰ぞ』と問ひたまへば、『僕(あ)は国つ神なり』と答へ曰(まを)しき。又、『汝は海道(うみつぢ)を知れりや』と問ひたまへば、『能(よ)く知れり』と答へ曰しき。又、『従ひて仕(つか)へ奉(まつ)らむや』と問ひたまへば、『仕へ奉らむ』と答へ曰しき。故、爾に槁機(さを)を指し渡し、其の御船に引き入れて、即ち名を賜ひて、槁根津日子(さをねつひこ)と号(なづ)けたまひき。此は倭国造等の祖。」とある。
 この場面は、交声曲「海道東征」の中では「第五章 速吸と菟狭(うさ)」で登場する。「童声或は女声合唱(童ぶり)」と指示されていて、普通は少年少女合唱団が歌う。北原白秋は「亀の甲に揺られて、潮の瀬に揺られて、かぶりかうぶり海の子」という詩にしている。わらべ歌風であり、古代のおおらかさがしのばれる。
 ≪なぜ日本人に空虚感が広がるか≫
 猛暑の昼下がり、明石海峡大橋を渡る。眼下に「速吸門」が見える。白波が海峡らしくところどころに立っている。観光船らしきものが航行していたが、進みにくそうに漂っていた。モーターボートが1隻、速いスピードで進んでいく。長く真っすぐに引かれた白い水脈が美しい。
 神武天皇の東征の船団が、どのようなものであったかは想像するしかないのだが、宗像大社の秋季大祭での海上神幸「みあれ祭」が思い浮かぶ。この祭りの様子をテレビで見たことがあるが、約200隻の漁船群が大漁旗をはためかせて玄界灘を勇壮に突き進んでいく光景には、明石海峡を神武天皇の船団が東征していく古代の歴史的場面を連想させた。もちろん、速度や船の大きさは随分違うわけだが、その勇壮さにおいて彷彿(ほうふつ)させるものがあった。
 島では、まず伊弉諾(いざなぎ)神宮を参拝した。この辺りが、伊弉諾尊の幽宮(かくりのみや)とされているところである。売店の2階の休憩室で冷えたラムネを飲みながら、日本の古代に思いをはせることの大切さを思った。 壁に貼られているポスターに、2年後の西暦2020年には『日本書紀』編纂(へんさん)1300年の記念すべき年が来ると書かれていた。これを機に日本の古代についての関心が深まり、日本人の人生が自分の人生の時間にとどまるものではなく、古代からの日本人全体の悠久の歴史につながるものであるという意識が高まることが期待される。今、日本人の心に広がる空虚感は、歴史との断絶に由来しているように思われるからである。
 何十年ぶりかに飲んだ懐かしいラムネの味は、回顧の気分に浸らせた。『古事記』の中の「汝は海道を知れりや」「能く知れり」という直截なやりとりが、交声曲「海道東征」の質朴な旋律に乗って聴こえて来るようであった。
 ≪国家の始まりの歴史を意識せよ≫
 その後、大和大国魂(やまとおおくにたま)神社に参拝した。淡路島に「大和」の名があるのに興味が惹(ひ)かれたからである。『古事記』に、槁根津日子について「此は倭国造等の祖」と書かれていたことと関係があるのであろう。『万葉集』巻三には、柿本人麻呂の羇旅(きりょ)の歌「天離(あまざか)る鄙(ひな)の長道(ながち)ゆ恋ひ来れば明石の門(と)より大和島(やまとしま)見ゆ」があるが、明石海峡から大和がそのように見えて来る絶妙な距離感の中で「倭国造等の祖」槁根津日子は登場するのである。いずれにせよ、今回の淡路島への「羇旅」は日本の古代への郷愁をかき立てるものであった。
 翻って思うに、日本人が古代の歴史を失って久しい。神武天皇の東征や橿原の地での即位などについての知識もあまり共有されていないのではないか。しかし、国家の始まりの歴史が深く意識されていない民族は、恐らく民族とはいえないであろう。2月11日の「建国記念の日」が何に基づいている祝日であるかを国民がよく知り、それを心から祝わなければならないはずである。これが、日本人の精神の真の再興の礎である。
 交声曲「海道東征」の演奏会が、今年の12月19日に東京芸術劇場で開かれる。来年には、即位と改元を控えた4月12日に同じ東京芸術劇場で、9月4日には札幌コンサートホールKitaraで、11月8日には大阪のザ・シンフォニーホールで演奏される。
 これらを通して、この曲は国民必聴の音楽となっていくに違いない。そしてこの音楽を聴くことによって日本人は日本人であることの意義を深く思うであろう。初代天皇である神武天皇の東征と即位を謳(うた)いあげた名曲だからである。(しんぽ ゆうじ)