わが生涯の教育と文化への疑念 新潟県立大学教授・袴田茂樹

正論・戦後73年に思う

 私は、敗戦の前の年に生まれたので、戦後73年はそのままわが生涯だ。それを振り返って痛感するのは、自分の受けた教育の貧しさである。それに関連して、私事で恐縮だが2、3のエピソードを伝えたい。

 ≪古典を理解し楽しむ力の大切さ≫

 先日知り合いの大学生から、国家試験に受かった、外務省に入りたいので卒業までに中央アジアとその周辺に関する知識を得たいが、何を読むべきか教えてほしいと訊かれた。

 私は次のように答えた。外交官に必要な具体的知見は、仕事に直面すればいや応なく身につけられる。今の君により重要なのは、今後、国内外の一流の人物と単に仕事上だけでなく人間として対等につき合える本物の教養を身につけることだ。そのためには、古今東西の古典を-思想でも文学や芸術でも-しっかりと理解し楽しむ力を養うことだ、と。

 さらに、次のことを付け加えた。教養とは秀才が弄ぶ「知的アクセサリー」、すなわちどのような事柄に関しても、一応の知識は披露でき解説もできるという小賢(こざか)しさではない。物事の本質を徹底的に考え抜くこと、あるいは本物の芸術や文化に感動する感性を培うことである、と。

 こう述べた背景は、私が受けた戦後教育の貧しさを痛感することが多かったからだ。17世紀の仏哲学者デカルトは、大思想家でありながら、千年以上前のギリシャ、ローマの古典に付け加えることは自分には何もないと述べ、良書に親しむことは過去の最も優れた人たちとの対話だと述べている。真剣な格闘でもあるだろう。

 ≪深い考察が生む密教的連帯感≫

 私たち戦後世代は、戦前のものは後(おく)れたもので悪いものとされ、名作も戦後の価値観で処理されて教えられた。古典は試験用知識を教えられただけで、それを本当に味わうことも優れた書物や芸術への感動も教わらなかった。

 ロシアや米国に数年住んだことがあるが、ロシアのある知人は「ハムレット」は三十数回読んだと言っていた。20世紀の初め、英国の知識人A・ベネットは、真の古典はそれを熱愛する少数者によって時代を超えて何世紀も守られるが、多くの人々は古典を敵視さえしている。それは「学校で教えられる」からだ。つまり、教育省や先生たちがよってたかってシェークスピアを若者たちの敵にすべく大汗をかいているからだ、と皮肉っている(『文学趣味』)。

 国外留学の時代に優れた知人、友人たちの影響を受けて私も古今東西の古典や芸術を少し嗜(たしな)み、人生や社会の本質的な事柄について多少考えるようになった。その後、数十カ国の人たちとさまざまな交流を続けてきたが、あることに関して確信をもつようになった。それは、本質的な事柄について突き詰めて考えたことのある人々は、民族や宗教、国や年齢が異なっていても、また立場や見解を異にしていても、少し突っ込んで話せば、密教ではないが「同じ仲間」としての連帯感を持てる、ということである。「あの問題でこの人も相当もがいたな」とお互いに直観で分かるからだ。

 日本のある会議で米国の人権問題の権威P・ジュビラー教授と2人で昼食をしながら話す機会があった。人権や自由と国家権力の関係について、見解が異なっていて議論になったのだが、例えば自由と権威については、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の物語、フロムの『自由からの逃走』などが話題になり、ルターの『現世の主権について』における権力観と新約聖書のロマ書の記述、イスラム教や儒教と自由といった事柄が2人の口から自然に出た。

 ≪アイデンティティーの確立を≫

 短時間の対話だったが、また見解が一致したわけでもないが、お互い直観的に仲間意識を持てた。それゆえ彼はコロンビア大学の人権問題センター長として、センターを訪問するよう誘ってくれた。われわれ2人で話した問題を彼の仲間たちとも共有し、もっと話し合いをしたいと思ったのだろう。

 私は英会話は下手なのだが、意思疎通の障害にはならなかった。こう述べると学をひけらかすようだが、私の到底及ばない真の教養人や思想家の凄(すご)さを知っており、戦後教育を受けた自身の貧しさは十分自覚しているつもりだ。

 米国に長年在住の日本人が、近年米国留学する日本人は英会話達者が多いが、おかげで恥をかくことが多くなった、とラジオで述べていた。ペラペラしゃべるほどその人の空っぽさがバレるからだ。2人の孫娘が、最近2年余り国外に住んで、英語がとても上達した。そのこと自体はうれしくて褒めたが、戦後教育の反省を込めて私が彼女たちに諭したのは、日本人としての言葉と文化・教養を身につけることの大切さである。自らのアイデンティティーを確立していない者が、他者を理解できるはずがないからだ。(はかまだ しげき)