嘉納治五郎と幻の東京大会(19)武士道精神との融合を願う

オリンピズム
東京五輪開会式で坂井義則さんが聖火を点灯した =1964年10月、東京・国立競技場

 「偶然のことで嘉納先生と先生最後の船を御一緒したのであるが、それから21年目に再び全く偶然のことから、先生の念願としておられた東京オリンピック実現のお手伝いをすることになったのである。思えば不思議な因縁であった」

 1959年5月の国際オリンピック委員会(IOC)ミュンヘン総会で、招致演説を行った平沢和重は、嘉納治五郎との交流を「世界柔道史」(恒友社刊)の序文でこう振り返っている。そしてミュンヘン総会について「委員会(IOC)のメンバーである東龍太郎博士が委員諸公に私を紹介する時に『嘉納先生の最後をみとった人物』であることに触れたとたん、委員諸公の顔にはありありと緊張の色が浮かんだ」と、当時の様子を記した。

 1940年大会を返上し、60年大会招致に敗れた東京にとって、64年大会の開催は悲願。その最終プレゼンの舞台に代役として登壇したのが平沢であり、平沢でなくとも「因縁」を感じたことだろう。

 嘉納と平沢の縁は、40年大会をめぐる駆け引きが行われていた38年カイロ総会に端を発する。当時、中国との戦争長期化を懸念し、東京大会を返上させようといった動きがIOC内で台頭していた。その議論が表面化しかねなかったのがカイロ総会であり、だからこそ嘉納は決死の覚悟で総会に乗り込む。

 旧知のIOC委員を説得し、「オリンピック競技は政治やその他の影響を受けてはならない」と訴えて東京への信任を得ると、さらなる支援を取り付けるべく米国などを回った。77歳でのことだ。そしてその帰途、急逝する。横浜帰着の2日前で、このとき同じ客船に乗り合わせたのが平沢だった。

 「今こうして御遺骸の安置された隣家で思ひをその走る侭(まま)に認(したた)めてゐる私は、心から東京オリムピックの成功を祈らざるを得ない」。こう述べた平沢は、その言葉通りに、ミュンヘン総会で最終演説を行うことになった。また、ミュンヘンの2年後の総会で、柔道の東京大会での実施が決まるが、このとき柔道を五輪競技にするために奔走したのが嘉納を尊敬していたフランスのIOC委員ピエトリだったという。柔道による青少年教育を実践し、IOC委員を29年間務めた嘉納の人脈が東京大会実現と柔道の五輪競技入りに大きく貢献した。

 「死せる嘉納先生が生ける委員を動かしてオリンピック柔道が実現したのである。人間、嘉納の勝利であった」。平沢はこう記したが、まさにその通りだった。ただし、嘉納が柔道を五輪競技にしようと働きかけた形跡はない。嘉納は柔道を五輪競技にすることではなく、武士道精神を入れることを目指していた。

 武士道精神とは、身体とともに心を練り、そこで得たものを社会生活に応用していくことであり、あるべき五輪像を教育家、柔道家として主張したのだ。40年大会には、武士道精神とオリンピズムとの融合という明確なビジョンがあり、それこそが嘉納の念願であった。そしてクーベルタンもまた「西洋のヘレニズムと東洋の文化芸術が融合すること」に意義を見いだしていたのである。=敬称略〈おわり〉(監修 真田久筑波大教授 構成 金子昌世)