大戦の検証通じ日本の姿考える 学習院大学学長・井上寿一

正論
学習院大学・井上寿一学長

 8月15日は先の大戦の戦没者を慰霊する日である。戦没者数およそ310万人、そのなかで未帰還遺骨の概数は100万柱以上に上る。戦禍がもたらした犠牲に言葉を失う。

 なぜ開戦は回避できなかったのか。回避できなかったとしてもなぜ早期に戦争を終結しなかったのか。犠牲者数を最小限にとどめることはできなかったのか。

 以下では日米開戦から戦争終結までの時期を対象として、これらの疑問を考える。

 ≪「万一の僥倖」に賭けた陸軍≫

 日米開戦は回避可能だったのか。戦後の日本外交史研究は、この疑問を解く目的で出発したと言っても言いすぎではない。

 1960年代初めには日本国際政治学会・太平洋戦争原因研究部が研究プロジェクトの成果を発表している。それ以来、今日までの膨大な研究の蓄積によって、日米開戦外交の全体像が明らかになっている。

 そこへ今年、研究の新たな画期となるような著作、牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦』が現れた。同書はすでに複数の書評があるので、内容紹介は必要最小限にとどめる。

 開戦の前年、陸軍の秋丸次朗中佐の下に集まった経済学者たちが、戦争経済に関する報告書をまとめる。

 同書はこの秋丸機関の「幻の報告書」を読み解く。「確実な敗北」と「万一の僥倖(ぎょうこう)」の両論併記の報告書に対して、陸軍は「万一の僥倖」の方に賭けた。

 陸軍の選択はそうだったのかもしれない。しかし実際の日米交渉は違った。日本側が最後の外交カードとした「乙案」(南部仏印から北部仏印への移駐と引き換えに石油供給を再開して開戦を回避する案)は、「確実な敗北」の回避策だったからである。

 「乙案」をめぐって暫定協定が成立すれば、東南アジアは雨期に入る。状況は膠着(こうちゃく)する。ヨーロッパでは対ソ連戦争でドイツが劣勢に陥る。外交史研究が指摘するように、こうなればあらためて開戦を決定することはむずかしくなる。

 ≪早期終結の戦略はなかった≫

 ところが暫定協定案に対するアメリカの返答はハル・ノートだった。アメリカにとってハル・ノートは最後通告ではなかった。交渉の余地は残されていたものの、日本は11月末までに外交交渉でまとまらなければ、12月初旬の武力発動を決めていた。ここに日本は対米開戦に踏み切った。

 真珠湾の奇襲攻撃は成功する。問題はそこからだった。

 陸軍省戦備課長の岡田菊三郎大佐(当時)は戦後、次のように指摘している。「初めからハワイを奇襲したついでに、なぜハワイを取ってしまわなかったのか」。ハワイを占領すれば、それをてこに戦争終結をめざすことができた。

 岡田は重ねて言う。「あのとき一挙にハワイをすぱっと取ったら、だいぶ異なった情勢が生まれたのではないか」。しかし実際には予防戦争としての早期終結の戦略はなかった。

 真珠湾攻撃から約半年後、日本はミッドウェー海戦で敗北する。2カ月後から始まったガダルカナル島攻略作戦では壊滅的な打撃を受けた。それでも日本は戦争を続ける。

 どこかで決戦を挑み、戦果を上げて和平に持ち込まなければならなかった。しかし陸海軍の戦略の統合が進まず、決戦の天王山は移動した。

 先の大戦で最大の犠牲者が出たのは、戦争の最後の年である。前年までに戦争が終結していれば、東京大空襲も沖縄戦も広島・長崎の原爆投下もソ連の対日参戦もなかった。しかし和平構想を持たずに戦争を始めた日本は、1944(昭和19)年までに戦争を終結することができなかった。

 ≪反実仮想し歴史の教訓を学べ≫

 「万一の僥倖」に賭けた結果は日本の国家的な破局だった。その代わり、戦後は平和と民主主義の時代が訪れる。

 しかし開戦直前の武藤(章)陸軍省軍務局長のように、「国体変革」に至るまで敗北しても、日本民族は「再び伸びる」と予測できたのは、きわめて例外的だっただろう。

 対する「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」による戦争回避は310万人を救うことができた。その代わり日本が先進民主主義国になるには、実際よりもはるかに長い年月を要しただろう。

 大政翼賛会から政党内閣の復活への転換に限っても、その過程は曲折が予想される。アジア諸国の独立も遅れたにちがいない。欧州諸国がアジアの植民地を手放す意思はなかったからである。

 他方で第二次欧州大戦が独伊の敗北に終わる。ほどなくして米ソ冷戦が始まる。1920年代の日米協調関係が冷戦状況のなかで復活する。そうなれば現実の戦後日本と同様の日本が形成される。

 8月15日は国民一人一人がこのような反実仮想による戦争の検証作業をとおして歴史の教訓に学びながら、戦没者を慰霊する日となることを願う。(いのうえ としかず)