【オリンピズム】嘉納治五郎と幻の東京大会(18)  もはや「ファー・イースト」ではない - 産経ニュース

【オリンピズム】嘉納治五郎と幻の東京大会(18)  もはや「ファー・イースト」ではない

 「昨年、ブランデージ会長は東京総会でこういわれた。『国際オリンピック委員会(IOC)は五輪の五つ目の地域、アジアにきた。これでやっと五つの輪がつながれた』と。いま日本の若人はIOCの会議だけでなく、本当にオリンピックがアジアと手をつなぐときを待ち焦がれている。日本の若人は五輪精神に深い理解とあこがれを持っているのです」
 1964年大会の招致を目指す東京を代表して平沢和重はIOC委員たちに、こう語りかけた。59年5月25日、IOCミュンヘン総会でのことだ。午後2時30分から始まった4都市によるプレゼンテーションはブリュッセル、デトロイトと続いて東京に。平沢はさらに、小学6年の国語読本を取り出すと「五輪の旗」という箇所を開いて「日本の子供たちは小学校でこうして五輪の創始者クーベルタンのことを教わる。すべての子供がこれを学ぶのです」と説いた。
 原稿を見ずに、分かりやすく語りかける平沢はさらに「わたしが(IOC総会で)説明することが新聞に出たところ、全国から手紙が殺到しました。年配の方は、かつて1940年にいったん日本開催が決まったあとで放棄した苦い思い出を記し、今度こそはぜひ約束を果たしたいという願いを訴えてきました」と、返上せざるを得なかった40年大会についても触れた。その上で東京開催の意義を次のように訴えかけた。
 「西洋の人は、わたしたちの土地を『ファー・イースト(極東)』といわれる。ジェット機時代のいま、もう距離は『ファー(遠距離)』ではない。『ファー』なのは国同士、人間同士の理解なのだ。国際間の人間同士のつながり、接触こそが平和の礎ではないでしょうか。西洋のみなさん、どうか東の若人に会ってください。いまや史上初めて聖火を迎えようとするアジアの準備は全く成ったと信じます」
 会場からの拍手の大きさがすべてを物語っていた。「オリンピックを真に世界の文化にするために東洋での開催」を主張した嘉納治五郎。平沢の演説はまさに嘉納の思想に沿うものだった。
 後年、見事なプレゼンテーションだったと語り継がれる演説だが、そもそもは平沢がスピーチ役ではなかった。予定されていたのは東大陸上部出身の外交官で、フランス語にも堪能な北原秀雄。しかし、直前に足をけがして渡欧できなくなり、外交官出身でNHK解説委員でもあった平沢に回ってきたのだ。突然の代役依頼にもかかわらず、引き受けたのは嘉納との少なからぬ縁を感じていたからではなかったか。招致説明の制限時間は一都市45分。制限時間を10分以上も超えたというデトロイトとは対照的に、平沢はわずか15分で主張を簡潔にまとめ上げた。
 有効投票数は58票。1回目の投票で、東京は34票、デトロイト10票、ウィーン9票、ブリュッセルは5票となった。大会返上、敗戦、復興を経て挑んだ招致活動で、東京開催が再び決まった。=敬称略(監修 真田久筑波大教授 構成 金子昌世)