生物兵器研究を禁止する倫理を 東京大学客員教授・米本昌平

正論
 米本昌平・東京大客員教授

 ≪ゲノム編集が開発促す恐れも≫

 近年、“ゲノム編集”という精度の高いDNA操作技術が開発され、利用が広がるにつれて、この技術が新しい生物兵器の開発を促すのではないかという懸念が、繰り返し示されるようになった。

 生物兵器は、1925年のジュネーブ議定書によって、化学兵器とともに実戦での使用が禁止され、さらに72年の生物兵器禁止条約によって、その開発・生産・貯蔵が禁止された。核兵器・化学兵器と並ぶ大量破壊兵器のうち、兵器としての保持を全面禁止にした初めての国際合意である。

 むろん今から見れば、いくつか欠点がある。条約順守のための検証手段がなく、防衛目的の研究は認められており、違反やその疑いがあっても安保理に苦情申し立てをするしか方策はない。条約の機能強化を目指して、8次にわたって運用検討会議が開かれてきたが、思わしい成果は出ていない。

 ではあるが、21世紀の今、国家が生物兵器を保持したり、ましてやその使用が疑われれば、国際的非難を浴びるのは確実である。条約の存在と生物技術の簡便さをあわせて考えると、生物兵器使用の危険性は、少数の“ならずもの国家”と、それ以上にテロ集団の場合が格段に高いことになる。

 生物兵器には、おどろおどろしい最終兵器というイメージがある上、戦前の日本軍の暗い行為が重なっている。これを議論するには、公開情報に限られるにしても確実な学術論文に依拠し、誠実でバランスのとれた問題の把握に努めなくてはならない。

 ≪製造競争が本格化した冷戦時代≫

 第二次世界大戦中、日本は生物兵器を重視し、731部隊が人体実験を行っただけでなく、中国などは中国大陸でこれを使用した、と主張している。戦後、日本を占領した米国はその結果を継承したが、内容が裁判で明らかになるのを嫌い、関係者を訴追しなかった。米国は、43年からメリーランド州のデトリック陸軍基地で生物兵器研究を開始し、冷戦時代に研究を本格化させた。

 だが60年代末になると、米ソ両陣営の核配備は飽和状態に近くなり、その結果、米ソ・デタントへと移行した。そんな中、ニクソン大統領は69年11月に、攻撃用の生物兵器の研究停止を一方的に宣言した。これが起点となって国連軍縮委員会で条約交渉が始まり、72年に条約が成立したのである。

 米国は条約の趣旨にそって、兵器として保有していた炭疽(たんそ)菌・ブルセラ菌・ボツリヌス毒などをすべて廃棄し、生物兵器研究施設を感染症医学研究所に改組した。当時は、生物兵器の殺傷能力を大きく見積もる、例えば世界保健機関(WHO)報告が作成される一方で、米政府内では、旧日本軍のデータや自身の研究から、生物兵器の実戦効果を疑問視する意見が出ていたらしい。ニクソン大統領は後者の見解をとり、平和攻勢で主導権を握ろうとしたのであろう。

 ただし、冷戦時代のソ連は、国際合意は敵を欺く道具と考えていた節がある。92年に至ってエリツィン大統領は、旧ソ連は条約の成立後、逆に生物兵器研究を大規模化していたことを明らかにし、これらはすべて解体したと述べた。

 ≪広義の安全保障に繋がる議論を≫

 現在、生物兵器の危険性は、3つの先行事例を念頭に議論されることが多い。(1)湾岸戦争後にイラクの生物兵器研究が暴露されたように、“ならずもの国家”による保有、(2)95年のオウム真理教による地下鉄サリン事件(死者13人、負傷者6000人以上。教団はボツリヌス菌も研究していた)という大規模テロ、(3)2001年9月11日の米中枢同時テロの後に起こった、小規模のバイオテロ(炭疽菌が新聞社や連邦議員に郵送され、死者5人を出した)-の3タイプである。

 現在の議論の大勢は、ゲノム編集技術や合成生物学が生物兵器開発に繋(つな)がる恐れはゼロではないが、遺伝子組み換え技術と同様、現行の対応策を強化するよりない、というものである。

 その一因として、生命科学研究においてはとりわけ軍民両用(デュアルユース)の境界が漠然としていることがある。そのため、病原菌株の管理を厳格にする一方で、研究の透明性を徹底させ、疑義のある研究は絶対に行わないとする研究倫理を確実に守る職能文化を育まなくてはならない。

 他方、現代社会はバイオテロには非常に脆弱(ぜいじゃく)であり、予防手段はないという前提で対策をとるほかない。万一、バイオテロが起こってしまった場合は、初動の対応が決定的に重要である。普通ではない感染症の発症を早期にかつ正確に検知できる人材・診断インフラ・専門知識などが不可欠である。

 この面での公衆衛生の水準を上げ、ワクチン研究もしなければならない。ただし、これらが兵器研究に繋がるのではないかという批判は当然出てくる。必要な社会的機能である以上、こういうまなざしの下で整備すべきなのだ。こうした質の高い議論が行われること自体が、広義の安全保障に繋がることを認識すべきである。(よねもと しょうへい)