持続可能な社会つくる歴史観を 社会学者、関西大学東京センター長・竹内洋

正論
社会学者の竹内洋・関西大学東京センター長

 「反復史観」から「成長史観」へ

 私が子供のころ農山村にいくと、植林をしている年配の村人を見かけたものである。植林は治山治水のためであるが、当時は大きな木が建材としてよい値で売れ、現金収入の少ない農山村を潤すものだったからである。しかし、植林した木が大きくなるころに作業をしている人は、もうこの世にはいない。だから自分たちのためではない。もっぱら子孫の世代のための作業だった。

 こうした作業に黙々と従事できたのは、高度経済成長がまだ人々の生活に浸透していない時代の農山村民だったからだろう。彼らの過去・現在・未来の時間(歴史)意識に、日の下に新しきものはなしの「反復・円環史観」が残っていたからである。自分たちが利便を得たのと同じものを子孫にも残さなければならないとなった。

 近代は目覚ましい技術革新による工業化社会である。経済の高度成長期には農山村民が減り、反復・円環史観は昔日の人々の歴史意識となる。かわって明日は今日より成長し発展するという「成長・発展史観」になった。

 近代に台頭したマルクス主義は資本主義の崩壊という終末思想を含んでいるが、終末のあとに千年王国としての共産主義を想定しているのだから成長と発展の歴史観である。それは彼らが自らを進歩主義陣営とか進歩的文化人としていたことに示されている。だから、高度成長期には、技術進歩によるバラ色の未来を描く体制的な未来学と反体制的なマルクス主義が同居しえたのである。

 ≪せり上がってきた終末思想≫

 確かに成長・発展史観のもとでは、未来は今よりももっとよくなるという希望によって生きられた。反復・円環史観に生きた人々は自分が享受したものと同じものを子孫に残すことを支えにしたが、成長・発展史観に生きた人々は自分が生きた時代よりも自分の家や社会をよくしてこの世を去るという実感を得ることができた。

 しかし、その希望は環境問題の悪化にはじまる成長のつけに目をつぶったもの、近未来の希望のために遠い未来を犠牲にしたものだった。だから経済の高度成長に陰りが見えるあたりから、公害問題や資源の枯渇の兆しなどで未来からの復讐(ふくしゅう)が見えてきた。成長・発展史観が揺らぎだす。

 1972年にローマ・クラブ(スイスに本部があるシンクタンク)は、人口増加と環境汚染がこのままの傾向で進行すれば100年以内に地球の成長の限界が来るとした。この警鐘がしだいにリアリティーを増してくる。それにともなって「衰退史観」が台頭する。衰退が避けられないなら、上手に衰退していくことだとされ、大英帝国没落の歴史をもつ英国が「優雅なる衰退」のモデルになったりした。

 やがて衰退・没落史観どころか「混沌(こんとん)史観」や「破局史観」が広がりはじめる。近年の日本の破局史観は73年のオイル・ショックや公害問題を背景に出現した。『日本沈没』(小松左京)や「1999年人類滅亡」(ノストラダムスの大予言)にはじまる。いずれも、末法思想などこれまで間欠的に表れた終末思想の一種ではあるが、そうした気分が今では地球環境の急激な悪化や自然災害の頻発によってせり上がってきている。

 こうして人々に広く、浸透し始めた混沌・破局史観は、2つの危険な傾向を呼びこむ。

 いかに未来へのつけを減らすか

 ひとつは「タイタニック・メンタリティー」である。没落が未来ならば、旅は楽しく、快適にという現在主義・刹那主義である。

 そうした中では、官僚こそが、短期的ではなく長期的、部分的ではなく全体的思考ができるかもしれない頼みの綱である。これまでは官僚自身の矜持(きょうじ)もそこにあったはずである。しかし、森友・加計問題の対処や近年多発するかれらの不祥事をみていると、官僚もまた、というよりも、官僚こそ刹那主義(タイタニック・メンタリティー)のニヒリズムに陥っているのではないかと思えてしまう。

 もうひとつの危険は、極論を呼号し、人々を使嗾(しそう)するデマゴーグの時代になりやすいことだ。

 近年、言論界にはこうすればすべてうまくいく、あるいは物事を善悪正邪の二項対立に振り分けて性急に裁断する極端な言論が増えている。この傾向は言論だけでおさまらない。

 われわれは、それをすでに経験している。破局史観の空気に乗って1995年にオウム真理教の地下鉄サリン事件が起きた。特異な一回性の出来事と言い切れるだろうか。2020年の東京オリンピックという祭りの後が危険ではあるまいか。

 すべきことははっきりしている。今の状態を微調整しながら維持の方策を考えつつ、未来の世代のつけを減らすことである。反復・円環史観に生きた人々の子孫への思いと重なるものがある。華々しさはない。地味で根気もいる。持続可能な社会のためにはこうした「成熟」史観に立脚する以外ないのである。(社会学者、関西大学東京センター長・竹内洋 たけうちよう)