嘉納治五郎と幻の東京大会(17) アピールの場となった東京総会

オリンピズム
東京で開催されたIOC総会=1958年5月14日、東京・内幸町

 1952年ヘルシンキ大会で、五輪への復帰を果たしたスポーツ界にとって次なる目標は五輪を再度、東京に招致して大会を開催することだった。最初の公式表明は52年5月、東京都知事の安井誠一郎による東京招致宣言。これを受けて都議会が招致を決議し、6月にはオリンピック招致連絡会議が開かれる。日本体育協会からは平沼亮三名誉会長、東龍太郎会長、田畑政治専務理事らが出席して招致内容について話し合われた。

 60年大会の開催地決定まで約3年。立候補都市はローマ、ローザンヌ、ブダペスト、ブリュッセル、デトロイト…と、強力なライバルがそろう。どう東京をアピールしていくか。大会計画はもちろん、広報宣伝についても早急に計画を立てていかねばならなかったが、準備の遅れを取り戻せないまま月日は過ぎていった。そして迎えた55年4月、開催地を決める国際オリンピック委員会(IOC)パリ総会を2カ月後に控え、IOC会長のブランデージ(米国)が来日する。嘉納治五郎とも親しく、嘉納を「典型的な教育家」とたたえたブランデージは、40年招致の際、最後まで東京を支持してくれた一人だった。そうした関係もあったのだろう。スポーツ関係者との懇談や各競技場の視察を行うと、次のようなアドバイスを残した。

 「60年大会は有力都市が多く、東京が選ばれる可能性は低い。またヨーロッパの国々は、派遣費用の面からも前回メルボルン大会から2回続けてヨーロッパ以外の国で開催することを嫌うだろう。今回の立候補はIOC委員に、東京に開催の意思があることを宣伝する絶好の機会ととらえた方がいい」

 指摘通り、55年6月のパリ総会で、東京は1回目の投票で落選する。そして40年大会を東京に譲る形になったローマが開催地に決まった。ここから64年大会への再挑戦は始まった。東京都は10月10日、再び大会招致決議を行う。準備不足を反省してのことだった。また、招致を実現するためにはIOC委員の支持と国際大会の運営実績が不可欠と考え、まずIOC総会を招致することを計画した。こうして第3回アジア大会開幕直前の58年5月、重要なアピールの場となる東京総会を迎えた。

 「日本体育協会 日本オリンピック委員会100年史」によると、東京・内幸町のNHKホールでの開会式では雅楽や交響曲の演奏、合唱などが披露され、なかでもNHK交響楽団による「オリンピック賛歌」がIOC委員らに感銘を与えた。オリンピック賛歌は1896年の第1回大会で使われたが、その後忘れられていたのを、合唱付きで62年ぶりに復活演奏したものだった。

 総会後、IOC委員たちは、総工費13億円をかけて新設されたばかりの国立競技場を中心に開催されたアジア大会を視察。ブランデージから「東京にはオリンピックを開催する資格が十分にある」との見解を引き出した。開催地を決めるIOCミュンヘン総会は翌59年5月に迫っていた。=敬称略(監修 真田久筑波大教授 構成 金子昌世)