【正論】「理性ある服従」の実践に努めよ 金沢工業大学虎ノ門大学院教授・伊藤俊幸 - 産経ニュース

【正論】「理性ある服従」の実践に努めよ 金沢工業大学虎ノ門大学院教授・伊藤俊幸

元海将の伊藤俊幸・金沢工業大学虎ノ門大学院教授(酒巻俊介撮影)
 日本大学アメリカンフットボール部の悪質タックル事件がいまだに終息しない。元防衛大学校アメリカンフットボール部員だった筆者としては、このような形でこのスポーツが世間に広まることが残念でならない。
 第三者委員会の中間報告は「監督とコーチの指示」で行われ「傷害の意図」を含んでいたと認定。さらに「一部関係者が介入し、事件のもみ消しを図ろうとした」と断じた。マスコミ関係者も含め、「うちの会社も同じようなもの」という人が多かったことも、この事件が社会問題化した背景だったといわれている。
 ただ、「まるで軍隊のようだ」と揶揄(やゆ)されることには、違和感があることを指摘しておきたい。
 ≪帝国陸海軍に何が欠けていたか≫
 防衛大学校は、帝国陸海軍の失敗を教訓として、新たな自衛隊の幹部養成学校、いわゆる「新しい士官学校」として設立された。槙智雄初代学校長は、世界の士官学校を視察し、何が帝国陸海軍に欠けていたのかを模索した。その結果、強く指導した一つが「理性ある服従」、つまり「フォロワーシップ」の正しい姿だった。
 「理性ある服従をする部下に対しては、でたらめな命令は下せない」-卒業後、すぐに曹士隊員の上官となる防大生は、そのことをたたき込まれるのである。
 昨年11月、ハイテン米戦略軍司令官は、あるフォーラムで、トランプ米大統領が核攻撃を命令しても、自分が違法と判断すれば従わず、別の選択肢を大統領に提示する考えを示した。
 「その命令が違法なら、私はこう言うでしょう。『大統領、それは法に反しています』。大統領は『では、何が合法なんだい』と問われるでしょう。それに対して、私たちはどんな状況にも対応できる選択肢を検討し、『進言』するのです」
 つまり上司の命令を「正しく疑う」ことから始まるのだ。この「健全な懐疑主義」こそが科学的思考の上で、重要な要素だと米海軍では教育されている。「理性ある服従」の実践なのである。
 ≪フォロワーこそリーダーになる≫
 トランプ大統領の下では、側近たちがすぐ首にされるケースが目立つ。これはティラーソン前国務長官も含めて直属の部下たちが、日本のように「面従腹背」して「間違った忖度(そんたく)」をする「イエスマン」などではなく、「正しいフォロワー」として「進言」してきた結果であるといえる。
 戦後、米海軍から学んだ海上自衛隊では、艦艇や潜水艦の艦長は「出港せよ」とは命令しない。「理想の艦長が発する言葉は『了解』と『待て』だけだ」と先輩からは教えられてきた。
 副長以下の幹部自衛官は、若年幹部当時から「艦長に対しては『○○なので○○します』と進言せよ」と厳しく指導されてきたのである。
 欧米が発祥のMBA(経営学修士)では、学問体系としてリーダーシップ論が教育される。1900年頃の「カリスマ論」から始まり、50年頃からは「リーダーとフォロワーの相互関係」が論じられ、現在は「フォロワーシップ論」つまり「フォロワーこそリーダーになる」という論に推移している。
 そもそも「マネジメント」と「リーダーシップ」は別物だということをご存じだろうか。
 「マネジメント」とは、ルールや制度といった組織運営に関する規則により、集団をコントロールする方法論だ。
 しかし、この方法だけでは「こんな上司のいうことを聞かない」とか、ルール以外の事態に対しては全く融通が利かない。特に情報技術(IT)や人工知能(AI)が導入され、変化が激しい今の時代においては、あらかじめ想定される事態に合わせて逐一、ルールを決めていたのでは間に合わない。
 スピード感が求められるからこそ、改めて必要とされる方法論が「リーダーシップ」なのである。具体的には「リーダーがフォロワーの心に直接働きかけて」、心が動いた「フォロワーが自らリーダーの意向に沿うように主体的に行動する」-そのために必要な科学的手法なのだ。
 ≪心配な「ノーが言えない日本人」≫
 実は帝国陸海軍でも、前者を「指揮」、後者を「統率」と呼称して存在はしていたが、「統率はいわく言い難し」といわれるように、科学的な方法ではなかった。そのため「何も言わない、いい人」や「逆らえない強圧的な人」がリーダーになってしまった。
 ともすれば「MBAは日本人にはなじまない」とする考え方もあるようだが、いまやその科学的方法論が世界のビジネス界の主流になっているのだ。
 ましてや「2050年にはわが国モデルを世界標準にする」という中国に対し、「面従腹背が官僚の態度だ」と公言し、黙従すればどうなるか。外国との交渉で「ノーが言えない」日本人の姿を見ていると、進んで臣下に下ってしまいそうで、本当に心配である。(いとう としゆき)