嘉納治五郎と幻の東京大会(16)戦争に翻弄された選手たち

オリンピズム

 東京大会の返上後、1940年大会は、いったんヘルシンキでの開催が決まったが、戦乱拡大のため中止に追い込まれる。その後、第二次大戦終了後の48年ロンドン大会まで、五輪は開かれることはなかった。

 40、44年大会が開催されなかったことで、数多くの選手が五輪での活躍の場を奪われてしまった。もしも東京大会が実現していたならば、選手たちの歩みも大きく変わっただろう。

 ベルリン大会での「友情のメダル」で有名な棒高跳びの大江季雄は、東京でも活躍を期待された選手で、ベルリンの翌年には、全米体育協会に招かれて渡米、ニューヨークで行われた室内大会で、ベルリン金メダルのメドウスを破っている。メダルを分け合った西田修平と大江はグラウンド外でも仲がよく、大江はよく西田にアドバイスを求めたという。しかし、戦争が運命を変えた。

 38年9月、西田は大阪の高槻工兵隊に、大江は翌39年に京都・福知山の歩兵第20連隊に入隊した。41年12月、大江はフィリピンで戦死するのだが、背嚢(はいのう)の中にはベルリンで履いたスパイクシューズがあったという。

 九死に一生を得た西田は、戦後の混乱が終わった51年にニューデリーで開催された第1回アジア大会に参加。コーチ兼選手として出場し、3位に入る。41歳でのことだった。

 12年ぶりに復活した五輪に、日本とドイツの選手団は招待されていない。国際オリンピック委員会(IOC)は日本とドイツの参加に最後まで頭を悩ませたというが、開催国の意向が流れを決めた。理由は、両国のスポーツ統括団体が戦争でなくなったこととも。しかし、すでに日本体育協会は復活していた。嘉納治五郎が心血を注いだ五輪、その復活の大会に参加できなかったことは関係者にとって忸怩(じくじ)たる思いだったろう。しかし、ここで黙っていなかったのが戦前「水泳ニッポン」を築いた日本水泳連盟だった。

 ロンドン大会の日程に合わせて日本選手権を開催したのだ。大会プログラムには日本水連会長、田畑政治の「ロンドン大会に挑む」思いがつづられている。

 「もし諸君の記録がロンドン大会の記録を上回るのであるならば……ワールド・チャンピオンはオリンピック優勝者にあらずして日本選手権の優勝者である」

 8月6日、1500メートル自由形決勝。神宮プールは1万7千人もの観客で膨れあがった。予想通り、古橋広之進が橋爪四郎との一騎打ちを制し、世界記録を20秒以上も短縮する18分37秒0という驚異的な記録で優勝する。橋爪も0秒8差で続いた。ロンドン大会優勝のジェームズ・マクレーン(米国)の19分18秒5を上回る圧勝だった。古橋は2日後の400メートル自由形でも世界記録を樹立。翌年、日本水連は国際競技連盟への復帰を果たした。後に64年東京大会にも深く関わる田畑の狙いはこのあたりにあったのだろう。

 世界記録を次々と塗り替え、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋は、日本が復帰した52年ヘルシンキ大会で五輪初出場を果たすが、体調を崩しており、力を発揮できずに大会を終える。やはり戦争の影響を受けた一人だった。=敬称略(監修 真田久筑波大教授 構成 金子昌世)