嘉納治五郎と幻の東京大会(15)日本文化との融合はかなわず

オリンピズム
講道館前に立つ嘉納像。教育家、柔道家として東京大会実現を目指した

 オリンピック旗に包まれた嘉納治五郎の体は1938年5月6日、横浜港に無言の帰国を果たした。葬儀は5月9日、講道館大道場で講道館、大日本体育協会、東京大会組織委員会などの合同葬として執り行われ、国内外から哀悼の意が数多く寄せられた。

 国際オリンピック委員会(IOC)会長のラツールは「単に日本にとって非常なる損失たるにとどまらず、全世界のスポーツ界にとってもまた同様である。氏は自身偉大なるスポーツマンで……青年の真の教育者であった」と悼み、IOC委員のアバーデア(英国)は「私は氏の遺志に従い、日本におけるオリンピック競技会を支えることを最大の幸福と考える」と、東京大会への協力を誓った。しかし、大会開催への原動力を失った組織委に危機的な状況を打開する術(すべ)は残されていなかった。

 「日本体育協会 日本オリンピック委員会100年史」によると、いったん明治神宮外苑競技場を改築することに決まったメインスタジアムも内務省の合意が得られず、組織委は4月にこの案を放棄。続いて駒沢のゴルフ場跡地に建設することを決定する。神田駿河台に室内プールなどを備えた体育館を新設することも決め、施設建設がようやく動き出すかに思われたのだが、状況が許さなかった。鉄は貴重な資材で、スタジアム建設のために大量に使うことなど不可能に近かったのだ。

 6月には「重要物資需給計画」の改定が承認され、東京五輪関連の工事の中止も明記される。7月に入ると、鋼鉄と羊毛が戦時重要物資として消費が制限されるなど、統制は厳しさを増していく。ついに7月14日、五輪を所管する厚生省は大会中止を決定。木戸幸一厚生大臣が中止声明を発表し、翌日、大会返上が閣議決定された。決定に際し、政府とIOC間の調整を行ったのがIOC委員の副島道正だった。首相の近衛文麿ら政府要人と会談を重ね、返上するなら「代替開催都市の準備(時間)も考慮する必要がある」と決断を促したという。

 杉村陽太郎とともに、ムソリーニと直談判するなど、東京大会招致に奔走した副島が大会返上に関わるとは、皮肉な結果だった。大会返上は直ちにIOC会長のラツールやスイス・ローザンヌのIOC本部に打電され、ラツールからは「残念だが、時宜を得た放棄だ」との談話が伝えられたという。

 クーベルタンは晩年、最後の手記に「東京での開催はアジアの国々を近代のオリンピズムで結ぶのみならず、古代ヨーロッパの最も高貴な文明であるヘレニズムが、アジアの洗練された文化・芸術と交じり合うことこそ大事」と記した。オリンピズムも時代とともに変化すると考えていたクーベルタンは、その糸口を日本の文化に求めていたのかもしれない。嘉納もまた東京招致にあたり、欧米だけの五輪ではなく、世界のオリンピック・ムーブメントにすべく働きかけた。本来あるべき五輪像を教育家、柔道家として主張したのだが、その実現はかなわなかった。=敬称略(監修 真田久筑波大教授 構成 金子昌世)