7月10日

産経抄

 TBSドラマ「人間の条件」の主役に抜擢(ばってき)されたのは、俳優座養成所の3年生のときだった。たまたま訪れた監督の目に留まった。25歳の新人は、初仕事にもかかわらず監督の演出に注文を出す。スタッフや共演者は目をむいた。

 ▼もっとも、10回以上読み込んでボロボロになった原作を手にしながら説明する姿には、説得力があった。たまに撮影が早く終わって一行が夜の町に繰り出しても、一人宿舎に残って役作りに余念がない。昨日訃報が届いた俳優、加藤剛さん(80)の「生真面目伝説」は、ここから始まった。

 ▼父親は静岡県御前崎町で、小学校の校長を長く務めていた。東京の長姉の家に寄宿して高校に通っていた加藤さんは、柔道に夢中だった。帰省して父親の書斎でふと手にしたチェーホフの戯曲集によって、演劇の世界に導かれていく。

 ▼昭和45年から、通算402回も演じた「大岡越前」をはじめ、正義を信じ、まっすぐに生きる役柄が多かった。たまに悪役を演じても、どこか誠実さがにじみ出てくる。それがかえって、演技に奥行きを与えていた。酒やたばこ、ギャンブルとは無縁。朝から晩まで芝居のことを考え、セリフを忘れた夢を見て夜中に跳び起きる役者人生である。

 ▼両親が芝居を見に来ても、父親は自分の子にはみっともない、と決して拍手をしなかった。加藤さんは年齢を重ねていくうち、常に背筋を伸ばし、謹厳実直を絵に描いたような父親に似ていったという。

 ▼そんな加藤さんには2人の息子がいる。長男は、「剣客商売」の舞台で大立ち回りの最中に生まれた。原作者の池波正太郎の許しを得て、役名の大治郎と付けた。弟は小次郎である。意外にひょうきんな面も、あったのかもしれない。