後世に残る日本代表の戦い 語り継ぐ大切さを考える 論説委員・佐野慎輔

日曜に書く
サッカーW杯ロシア大会、日本代表はポーランドに敗れたものの決勝トーナメント進出を決めた(中井誠撮影)

 勝っていたかもしれない。いまもなお、サッカー・ワールドカップ(W杯)ロシア大会の余韻がくすぶる。

戦いが琴線に触れる

 ベスト8をかけた決勝トーナメント1回戦。日本代表は首の皮一枚まで、強豪ベルギーを追い詰めた。しかし、わずかな隙を世界のトップチームは見逃さない。一度囲みが破られれば、後は守勢にまわるだけ。これが世界の実力なのか。

 初出場した1998年フランス大会から20年。「悲願の」と形容されていたW杯も出ることがあたりまえになって久しい。いまは決勝トーナメントで勝ち上がることが求められる。

 だからこそ、1次リーグ突破を決めたポーランド戦。降りそそぐブーイングに耐えながら選手たちはボールをまわし、西野朗監督はうめくように言葉を絞り出したのだった。

 「ワールドカップにはそうした戦いもある」

 結果論ではなく、ルールにのっとったぎりぎりの戦略が、ベルギーとの熱戦につながった。その戦いぶりが琴線に触れ、サッカー熱が高じた人も決して少なくないだろう。

 ベルギーやポーランドとの戦いはもちろん、監督交代に始まった3カ月の動きと選手たちの心の機微。間違いなく後世に語り継ぐべき戦いである。

 このところ改めて語り継ぐ、書き残す大切さを考えている。靖國(やすくに)神社の広報誌、「靖國」への寄稿を依頼されたことがきっかけで、戦没アスリートに思いをはせている。

戦に散った選手たち

 沢村栄治、景浦将、吉原正喜…プロ野球在籍者73人は東京ドーム敷地内に建つ「鎮魂の碑」にその名が刻まれる。

 学生野球や社会人野球などで活躍した嶋清一、楠本保、島田叡ら167人は野球殿堂博物館内にある戦没野球人モニュメントに名を残す。

 では戦没オリンピアンはというと、すぐ浮かぶ名がある。西竹一。1932年ロサンゼルス大会馬術の金メダリストは激戦の硫黄島での最期が映画にもなった。36年ベルリン大会棒高跳び、「友情のメダル」の大江季雄はフィリピンのルソン島で27歳の生涯に幕を下ろした。

 しかし、彼ら戦没オリンピアンがどう顕彰されたか寡聞にして知らず、幾人が戦地に散ったかもつまびらかではない。

 かつて走り高跳びの名選手であった曽根幹子・広島市立大教授が戦没オリンピアンを追跡、37人の存在を調べあげた。24年パリ大会競泳代表の斎藤巍洋を別格に、その大半はロスとベルリンの出場者であった。

 そこに3人のサッカー選手の名がある。竹内悌三、右近徳太郎、松永行。あの「ベルリンの奇跡」のメンバーである。

 1936年8月4日、日本代表は優勝候補筆頭といわれたスウェーデンと対戦した。

 実力にたがわずスウェーデンが前半で2点をリードした。ところが、後半開始4分、日本が1点を返すと流れが変わった。後半17分で同点、そして40分、勝ち越しの1点が入った。

 くしくも82年後の試合と逆の展開。同点ゴールが右近、勝ち越しは松永だ。虎の子の1点を守り抜いたのが竹内主将を中心としたバックス陣。日本サッカー初の国際大会勝利である。

 「翌5日のベルリンの朝刊新聞は、『奇跡の逆転劇』『サッカー・ショック』などさまざまな見出しで、…でかでかと報道した」。当時のメンバーで後に早稲田大ア式蹴球部監督も務めた堀江忠男は『わが青春のサッカー』に書いている。

歴史が変わったかも

 日本は、大会直前の国際オリンピック委員会(IOC)総会で1940年第12回東京オリンピック招致を決めていた。

 紀元2600年を記念し、関東大震災からの復興を祝うはずの大会は、しかし、戦火拡大の影響で返上を余儀なくされた。2年後の38年7月のことである。これを機に竹内も、右近や松永も、そして西や大江も戦地に赴くのだった。

 歴史に「もし」はないが、幻の東京大会が開催されていたなら、西は再び馬場の英雄になっていたろうか。大江は金メダルを胸にかけたかもしれない。そして、日本サッカーの歴史も変わっていたに違いない。

 あのW杯の戦いとともにサッカーの歴史を思った。過去の積み重ねの上にいまがある。来年はラグビーW杯、2年後の7月は東京オリンピックの開幕を迎える。過去を思い、いまと向き合ういい機会にしたい。(さの しんすけ)