【正論】リアリズムで対北交渉を進めよ 新潟県立大学教授・袴田茂樹 - 産経ニュース

【正論】リアリズムで対北交渉を進めよ 新潟県立大学教授・袴田茂樹

 既視感を抱く「のめり込み」
 約15年前になるが、2003年8月に北朝鮮問題に関する6者協議が始まる直前に、私は本欄に次のように書いた。「最大の関心事は、平和的交渉で北朝鮮の核計画を完全に放棄させることができるか否かだが、われわれはこの協議によって核問題や拉致問題が近いうちに解決すると期待すべきではない。…協議の場では北朝鮮を説得して核放棄に合意させるよりも、実質的な成果がほとんど得られないか、逆に北朝鮮に乗ぜられる可能性が高い」
 またこの6者協議が始まった後には、独立系のロシア紙がこの協議を「金正日のための大国のコンサート」と皮肉った。最貧国の独裁者を国際政治の主役に祭り上げたからだ。さらに「米による北朝鮮への武力行使を抑制しようとしている露中日韓は、もともとは金正日の政策を支持していないのに、結果として北朝鮮を擁護しその瀬戸際外交を促進するという悲喜劇的な役割を演じている」と揶揄(やゆ)したことも別の場で伝えた。
 トランプ米大統領の最近の北朝鮮への対応を見ると、これまで何回も見せられたというデジャビュ(既視感)を抱かざるを得ない。トランプ氏の北朝鮮への「のめり込み」には強い懸念を抱く。その懸念については多くの論者が指摘しているので、ここではトランプ氏が金正恩朝鮮労働党委員長との会談に自信過剰になった心理的背景と、北朝鮮の「完全で検証可能かつ不可逆的な非核化」(CVID)が実際には実現困難だと私が考える理由を説明したい。
 トランプ氏が高揚した勝利体験
 トランプ氏が金正恩氏との首脳会談に強い自信を抱いた背景として、私はチキンレースでの2回の勝利体験があると考える。
 1回目は、昨年8月の体験だ。北朝鮮は中距離ミサイル「火星12」を米軍基地のあるグアム島に向け4発撃ち込む可能性について声明した。ミサイル経由地の島根、広島、高知県の地名や飛行秒数まで具体的に挙げたので、実際に発射する計画があったはずだ。
 この脅迫に対しトランプ氏は翌日「グアムに何かをすれば、誰もかつて見たことがない事態が北朝鮮で起きる」と脅迫し返した。やがて金正恩氏は「米国の様子をもう少し見る」と、発射を中止した。これは、傲慢な若い独裁者にとり、屈辱的な敗北宣言だった。
 その4カ月前にシリアで化学兵器が使用されたとき、トランプ氏はシリアの空軍基地に59発の巡航ミサイル「トマホーク」を撃ち込んだ。このことが独裁者に強い衝撃を与えていたのだ。
 2回目だが、米朝首脳会談をトランプ氏が提案した後、今年5月に北朝鮮が「一方的な核放棄を強要するなら首脳会談に応じるか否か再考する」と述べ、その後、米副大統領を「まぬけ」と侮辱した。立腹したトランプ氏は首脳会談中止の書簡を金正恩氏に送った。その9時間後に北朝鮮は「いつでも、いかなる形でも、米国と対話の用意がある」との声明を出した。これも独裁者の敗北宣言である。これらのチキンレースの勝利体験がトランプ氏に「あの若造との交渉では絶対に負けない」との自信を与えたと筆者は考える。
 和平ムードには危うさが見える
 次に、北朝鮮のCVIDが実現不可能だと考える理由を3点挙げよう。第1に、よく言われることだが、イラクのフセインやリビアのカダフィらの運命を繰り返さないためには、核保有が絶対に必要だと金正恩氏は確信している。
 第2は、1994年のブダペスト覚書の結果も金正恩氏は熟知している。つまり、ソ連邦崩壊後、核兵器やミサイルを大量に保有していたウクライナに対して、米英露などの大国の首脳が、独立と主権を保証する代わりに核とミサイルを放棄するよう求め、ウクライナはそれに応じて覚書に調印した。しかし、露にクリミアを「併合」され、ウクライナ東部への露の干渉は今も続いているが、米英もそれらを阻止できなかった。
 もしウクライナが核を保有していたならば、この事態はあり得なかったと考えられる。大国首脳との約束も国際社会では紙くずだと金正恩氏は確信したはずだ。イラン核合意からの米国の離脱も(5月8日)、この確信を強めた。
 第3に、トランプ氏は北朝鮮に体制の安全を保証した。米国にそもそも非人道的な「金王朝の独裁」を保証する権利と正当性があるのかという問題は別にしよう。ただ金正恩氏が「金王朝」の安全を任期数年のトランプ氏に委ねて、祖父の代から国民の飢餓の上に必死に築いた核体制を放棄するとは考えられない。トランプ氏は結局、多くの貧しい独裁国に、核保有への強い動機を与えた。
 以上、平和交渉によるCVIDに関し悲観論を述べたが、北朝鮮に武力行使をすべきだと主張しているのではない。今日の北朝鮮の核をめぐる和平ムードに危ういものを見ているのだ。私は、武力行使の現実の可能性を背景にして初めて、交渉による平和的解決も可能という国際政治のリアリズムの基礎を述べているのである。 (新潟県立大学教授・袴田茂樹 はかまだ しげき)