【オリンピズム】嘉納治五郎と幻の東京大会(14)相次ぐ難題に準備進まず - 産経ニュース

【オリンピズム】嘉納治五郎と幻の東京大会(14)相次ぐ難題に準備進まず

 立候補表明以来5年の歳月をかけて実現させた東京招致だが、難題は準備に入っても絶えなかった。1936年12月に設立された組織委員会は、まず実施競技への対応に頭を悩ませる。当時は陸上、水泳など14の公式競技と、サッカー、バスケットボールなどの選択競技から成り、経験のない公式競技に手を焼いたのだ。特に射撃、フェンシング、近代五種は国内組織もなく、専門家がいないために大会運営に支障を来すことは明らかだった。
 「日本体育協会 日本オリンピック委員会100年史」によると、組織委は悩んだ末に、フェンシングと近代五種の除外を国際オリンピック委員会(IOC)に申し出たが、認められなかった。こうした運営ばかりでなく、メインスタジアムの建設場所も紛糾していた。こちらは翌年2月、明治神宮外苑競技場を改築することでいったんは落ち着くのだが、その他の会場や競技日程は未定のまま月日は過ぎていった。
 五輪開催に疑問を投げかける声も上がった。3月の衆院予算委員会で、河野一郎は緊張高まる国際情勢の中で五輪開催は困難ではないか-といった質問を行い、大会に疑問を呈した。海外からも当然、東京への危惧は広がっていく。
 1937年6月のIOCワルシャワ総会はこうした状況で迎えた。初のアジア開催でもあり、準備の遅れへの懸念は強く、また中国大陸への影響力を強める日本の姿勢にも批判的な声は多かった。それでもIOC委員の副島道正らの懸命な説得もあって開催の是非にまでは発展せず、総会を終えたのだが、7月7日、多大な影響を被ることになる事件が起きる。盧溝橋事件、日中戦争の発端となった事件だった。
 さらに陸軍省の決定が追い打ちをかけた。「100年史」には、8月25日に馬術選手の準備中止が発表された-とある。東京大会の馬術代表には、ロサンゼルス大会金メダルの西竹一、ベルリン大会代表の岩橋学ら現役の将校7人が決まっていたが、陸軍は時局を考慮して馬術訓練の中止を決めたのだ。日中戦争は収まる気配もなく、建設資材不足もあって会場建設のめども立たない状況が続いた。
 国内外で東京への風当たりが強まる中、逆風に挑んだのが嘉納治五郎だった。38年3月、「東京大会」が問われるIOCカイロ総会に、77歳の嘉納は決死の覚悟で臨む。「今回の会議は相当紛糾するだろうが、必ず開催するという信念のもとに堂々と押し切るつもりである」と。この「信念」によって何とか大会返上には至らなかったものの、苦しい胸の内も明かした。
 「幸会議は好都合に終了いたし候へ共、将来色々の問題に逢着する事に相成、今日より切り抜け方に苦慮致し居候」。大日本体育協会会長の下村宏にあてた手紙だ。「スポーツを通じた相互理解」を説いた嘉納は、東京大会の開催が孤立を深める日本にとっての希望ととらえていたかもしれない。しかし、時間は残されていなかった。
 巨星墜(お)つ-。カイロ総会からの帰途、太平洋上で急逝、5月4日のことだった。=敬称略(監修 真田久筑波大教授 構成 金子昌世)