嘉納治五郎と幻の東京大会(12)揺らぐことのない信念

オリンピズム

 不退転の決意で、五輪招致に取り組む嘉納治五郎は開催地決定が延期されたことを受け、次々に手を打っていく。その一つが、国際オリンピック委員会(IOC)会長のラツールを東京に招き、日本の文化と街の発展ぶりを知ってもらうことだった。

 日本側がイタリアと直接、事前交渉したことに心証を害していたラツールだったが、1936年3月に東京を訪れると一変し、アジアでの五輪初開催の意義を喧伝(けんでん)するようになる。7月末のIOCベルリン総会後には、再訪が「楽しみ」とまで語るのだ。

 「実を云(い)ふと私が日本を訪れる迄(まで)は日本に対して多少疑惑を持っていたが、日本を訪れてからはすっかり日本の友人になり切ってしまった。……1940年に再び日本へ行く機会のあるのは私にとって此(こ)の上ない楽しみである」

 33年に国際連盟を脱退した日本は国際的に孤立しかねない状況にあった。こうした時期に、世界的な競技会を東京で行うことへの支持を取り付けるのは、難事業だったに違いない。しかし、嘉納の信念と確信は揺らがない。ベルリン総会直前には、強烈な思いが言葉にものぞいた。

 「オリムピックは当然日本に来ると思はれるにも拘(かかわ)らず若し来なければそれは正当な理由が斥(しりぞ)けられたといふ事に違ひない。それならば日本から欧州への参加もまた遠距離であるから出場するには及ばないという事になる」

 ヘルシンキとの一騎打ちとなった投票は、7月31日に行われ、36票対27票でアジア初の開催が決まる。嘉納は「私が生んだ日本のオリムピック・ムーブメントは遂に実を結ぶことが出来た」と喜び、「世界に模範を示さねばならない。従来のオリムピックは欧米だけで開催され、真の意義を発揮出来なかったが、東京で行ふ事になりこれによって真に世界的なものとなると同時に日本の真の姿を外国に知らせることを得るので二重に愉快である」と改めて意義を語った。

 東京では、花火が上がり、祝賀祭が続いたという。その陰で、嘉納とともに招致を戦い抜いた外交官が、IOC委員を辞任している。杉村陽太郎だった。ムソリーニへの働きかけに対して責任を取ったという見方がある。東京への懸念材料を少しでも減らそうと考えたのではないか-。

 杉村は、六段という段位を持つ講道館門人というだけでなく、嘉納塾で起居を共にして薫陶を受けたまさに嘉納のまな弟子。日本が国際連盟を脱退するまで同事務局次長を務めており、嘉納の国際協調思想を理解する杉村にとって脱退は無念だったろう。その分、五輪への希望は膨らんでいたかもしれない。

 ようやく五輪開催を勝ち取った日本。今後の大会準備について米国の放送局から「ドイツに準じるのか」と問われた嘉納は、興味深い回答をしている。「若しも総(すべ)ての国が他を凌駕(りょうが)する事に努めるならば限りない。かくてオリムピック精神も又経費の濫費の為(ため)に失はれるに至るのであらう事を恐れる」と。五輪肥大化への懸念を、すでに抱いていたのだ。=敬称略 (監修 真田久筑波大教授 構成 金子昌世)