嘉納治五郎と幻の東京大会(11)有力候補ローマに勝つ秘策

オリンピズム

 東京、ローマ、ヘルシンキの3都市に絞られた1940年大会招致レースで、有力視されたローマに対抗する秘策が、嘉納治五郎にはあった。

 「イタリアはすでに荘厳なオリンピック競技場を有し、また地理的関係からも非常に有利で手ごわい。ムソリーニ首相も一生懸命であるが、彼は豪(えら)い人であるから訳を話して譲れと言へば譲るかも知(し)れぬ」

 33年6月、ウィーンでの国際オリンピック委員会(IOC)総会に出席した後の報告会で、嘉納はこう述べたという。

 ローマが立候補を辞退するように、ムソリーニに働きかけてみようという案だった。翌年5月のIOC総会(アテネ)でも現地入りして招致活動を展開した嘉納は、やはり「ローマ有利」の感触を得る。ムソリーニとの交渉の必要性を改めて認識したのではないだろうか-。

 当時は、まだ飛行機が発達しておらず、ヨーロッパから日本に来るには20日間前後を要した。欧米にしてみれば、日本に選手団を派遣することなど想像もできなかったに違いない。実際、渡航日数が長く、旅費もかかり過ぎると、反対するIOC委員は多かったようだ。もっとも嘉納が主張した「東京開催」の理由は、全く逆の発想からだった。「欧州と米国のみのオリンピックではなく、東洋でも行わねばならないというのが最も大きな理由。しかも日本くらい熱心に大会に参加している国は世界中に少ないのではないか」

 五輪を世界的な文化に高めるには東京での開催が必要だという主張だった。だが、準備が進むローマ優勢のまま、開催地を決めるIOC総会(オスロ)は着々と近づいていた。

 「日本体育協会 日本オリンピック委員会100年史」には、IOC総会を1カ月後に控えた35年1月、IOC委員でもある副島道正は、やはりIOC委員でイタリア大使に転任していた杉村陽太郎とともに、イタリア首相官邸に赴いた-とある。ムソリーニに、ローマの立候補取り下げを要請するためだった。

 重要な任務を帯びた二人だったが、直前に副島が急病に倒れてしまう。それでも高熱に侵されながら会談に臨んだ副島。窮地をチャンスとすべく必死に説得を試みた杉村…。そんな熱意に応えるように、ムソリーニは辞退を受け入れる。このとき杉村が外相の広田弘毅にあてた公電には「44年大会をローマで開催してくれるなら、40年の開催地は東京に譲る」といった内容が記されたという。

 これで「東京開催」は決まったはずだった。ところが、2月のオスロ総会は混乱に陥ってしまう。ローマが立候補を表明したからだった。最終的にはムソリーニが改めて取り下げを指示し、辞退するのだが、欠席者による委任投票分が無効になってしまうこともあって、オスロ総会での開催地決定は見送られる。また、延期にはIOC会長のラツールの意向も影響していたという。IOCに断りなく、ローマに働きかけを行った日本を快く感じていなかったようなのだ。=敬称略

 (監修 真田久筑波大教授 構成 金子昌世)