【オリンピズム】嘉納治五郎と幻の東京大会(10)IOC委員就任の教え子が支援 - 産経ニュース

【オリンピズム】嘉納治五郎と幻の東京大会(10)IOC委員就任の教え子が支援

 その紳士の目には涙が浮かんでいたという。
 「前畑さん、わずか10分の1秒差(での2位)だ。わたしは悔しくてたまらないんだよ。この悔しさを忘れずに、4年後のベルリンでがんばってほしい」
 1932年ロサンゼルス大会で競泳女子初の五輪メダルを獲得した前畑秀子に、東京市長の永田秀次郎はまるでわがことのように訴えかけたという。場所は東京・日比谷公会堂の控室。ロサンゼルスから帰国したメダリスト、入賞者を招いての祝賀会でのことだった。
 ロサンゼルスで日本が獲得したメダルは金7、銀7、銅4の計18個。5個だった前回アムステルダム大会から一挙に3倍以上に増えたとあって選手への声援、歓迎ぶりは相当なものだっただろう。祝賀会を終えて名古屋に戻った前畑も改めて実感する。全国から山のような手紙が届いていた。ほとんどが永田と同じく「ベルリンで金メダルを取ってください」という激励。こうして一度は引退を考えた前畑の挑戦は再び始まった。
 「東京」招致への追い風となったのは、選手の活躍だけではなかった。33年6月、ウィーンで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会で、日本から3人目のIOC委員として嘉納治五郎の教え子でもあった杉村陽太郎が選出されたのだ。当時、IOC委員を3人輩出していた国は、米国、英国、フランス、ドイツなど数カ国で、日本がスポーツの一流国に仲間入りした証しともいえた。
 嘉納は、ウィーンから永田に対し「IOC会長から難色を示されたが、懇意にしていた国際陸連会長らが味方をしてくれた」といった内容の手紙を送っている。そして結びには「委員を3人にして置くことは(開催地を決める)35年の会議の時、日本に有利と存候」と記した。
 国際連盟事務次長だった杉村は、身長185センチ、体重100キロの巨漢で、スポーツにも造詣が深く、外交経験も豊富だった。東京高等師範学校附属中学時代の数年間の校長が嘉納だったというだけでなく、講道館にも入門していて、柔道は6段。外交官としてフランス勤務中には、柔道の普及にも尽力したという。
 もう一人、副島道正も嘉納を支えることになる。大日本体育協会会長でIOC委員でもあった岸清一の急逝に伴い、34年5月、アテネでのIOC総会で後任に就任する。副島は嘉納が学習院の教頭を務めていた頃に学習院に入学。卒業後、ケンブリッジ大学に学び、貴族院議員も務めたが、学業に関して叱られた経験もあったそうで、嘉納は「怖い存在」だったようだ。一方で、IOCで多くの委員に敬愛されている姿を目の当たりにし、IOC委員が語った嘉納の印象を紹介している。「嘉納翁はIOCの仲間と云ふよりも、世界的に有名な日本武道の柔道の父として親し味を感じる」と。
 肝心の招致レースはウィーン総会の時点で東京、ローマ、ヘルシンキの3都市の争いに絞られていたという。もっとも有力候補は依然としてローマだった。=敬称略(監修 真田久筑波大教授 構成 金子昌世)