嘉納治五郎と幻の東京大会(9)スポーツを通じた相互理解願う

オリンピズム

 五輪招致に向けて、「東京」のアピールを期待されたであろう日本選手団は1932年ロサンゼルス大会で、その期待に見事に応えた。男子6種目中、5種目を制した競泳では、この大会に女子選手が初参加し、いきなり表彰台に立つ。200メートル平泳ぎで銀メダルを獲得した前畑秀子だった。

 「前畑がんばれ! がんばれ!」の名実況が有名になるのは次回ベルリン大会で大接戦の末に日本女子初の金メダルを獲得した際のこと。このときは2位に敗れた悔しさよりも、全力を出し切れたことで納得し、引退するつもりだったという。ベルリンを目指すことを決心するのは帰国後のことで、この大会期間中に東京が40年大会招致を正式に提案したことが少なからず影響したように思う。こうした“招致熱”に背中を押されるように、活躍は競泳だけにとどまらなかった。陸上競技では、南部忠平が三段跳びで金メダルを獲得し、前回アムステルダム大会の織田幹雄に続いて日本選手2連覇を果たせば、64年東京大会で日本選手団長を務めることになる大島鎌吉も3位に食い込んだ。

 さらに体格で劣り、世界との差を痛感させられていた短距離でも快挙が演じられる。100メートルで吉岡隆徳が1次予選を1位通過すると、2次予選で2位、準決勝は3位でクリアして決勝へ。迎えた8月1日。「ロケットスタート」で飛び出した吉岡は後半になって後続に抜かれはしたものの、6位でゴール。100メートルの「ファイナリスト」は、いまもこの吉岡ただ一人。「暁の超特急」という呼び名にふさわしい走りっぷりだった。

 8月14日の閉会式に先立って行われた馬術の大賞典障害飛び越しでは、陸軍中尉の西竹一が優勝。当時の馬術は最終日にメインスタジアムで行われる花形競技で、近代スポーツ後進国とみられていた日本はロサンゼルスで、存在感をしっかりと示した。こうした選手たちの活躍を受けて、招致活動は本格化していった。そして当時、70歳を超えていた嘉納治五郎も全精力を傾けて東京への招致活動を展開していく。

 そもそも嘉納がオリンピック・ムーブメントに関わるようになった理由は、大きく分けて3つだった。(1)体育による青少年教育の推進(2)スポーツに内在する友好理念への理解(3)国民体育の推進-。こうした思想があったからこそ、国際オリンピック委員会から国内オリンピック委員会の設立を求められた際、選手の派遣母体としての組織ではなく、国民体育の振興を併せ持った形の大日本体育協会として、国民レベルでの体育・スポーツの奨励、普及も目指した。

 また、東京高等師範学校長時代に、8千人もの留学生を受け入れた嘉納にとってはスポーツを介した青少年の交流による相互発展は、すでに実践済みのことでもあった。当時、米国では日本の満州国政策に批判的で、反日感情もあっただけに、スポーツを通じた相互理解を、嘉納は期待していたであろう。その意味でもロサンゼルスでの選手たちの活躍はうれしかったに違いない。=敬称略(監修 真田久筑波大教授 構成 金子昌世)