【オリンピズム】嘉納治五郎と幻の東京大会(8)ロス大会での活躍、招致後押し - 産経ニュース

【オリンピズム】嘉納治五郎と幻の東京大会(8)ロス大会での活躍、招致後押し

 1931年10月、東京市は「第12回オリンピック競技大会を東京市に招致する」ことを決議する。これを機に、五輪招致活動が正式に動き出した。23年の関東大震災から8年。東京復興を進めたいという思いと、40年が「皇紀」では、2600年に当たることから、記念事業として五輪を招致しようという狙いだった。
 1896年にアテネで第1回大会を開催した近代五輪は、米国で2大会(第3回セントルイスと第10回ロサンゼルス)を開いた以外は、全てヨーロッパ開催で、本場のヨーロッパから見れば、はるかかなたの東京で、さらに近代スポーツ後進国とみられていた日本で開くことには、かなりハードルが高かったことだろう。
 一方、五輪招致決議の翌年の1932年に開催されたロサンゼルス大会には131人(男子115人、女子16人)もの選手が派遣された。43人だったアムステルダム大会の3倍もの大選手団。アムステルダムでの日本選手の躍進に加え、東京への五輪招致熱も後押ししたに違いない。派遣費用はかなりの額に上ったが、国内外から多大な支援が寄せられた。
 「日本体育協会 日本オリンピック委員会100年史」によると、政府から10万円の補助金が交付され、さらに永田秀次郎東京市長を会長にしたオリンピック後援会が結成されて、一般から21万円余りの募金も寄せられた。また、米カリフォルニア州在住の邦人が後援会を組織して7千ドルを選手団に寄与した-とある。こうした後押しを受けて日本選手団は6月23日と30日出発の2班に分かれ、横浜港からロサンゼルスに向かった。
 開幕を2日後に控えた7月28日、国際オリンピック委員会(IOC)総会で、IOC委員でもある嘉納治五郎が大会招請状を正式に提出し、もう一人のIOC委員、岸清一が補足説明を行って第12回オリンピック大会の東京開催を提案した。開催地は3年後のオスロでのIOC総会で決定することも決まる。立候補都市として名乗りを上げていた都市は、ローマ、ヘルシンキ、バルセロナ(スペイン)、ブダペスト、ダブリン(アイルランド)など、10都市。前評判ではローマが有力とみられており、東京の視界は良好とはいえなかった。
 それだけに、ロサンゼルスで実施された16競技のうち、陸上競技、水泳、馬術、レスリング、体操など9競技に参加した日本選手団には前回大会以上の活躍が期待されていたことだろう。選手団は、そうした期待に見事に応えてみせる。特に目覚ましい活躍を演じたのは競泳陣だった。男子6種目中、5種目を制して世界を驚かせたのだ。200メートル平泳ぎを制した鶴田義行は2連覇を果たし、100メートル背泳ぎでは清川正二、入江稔夫、河津憲太郎が金銀銅を独占した。当時、名古屋高商の学生だった清川は後年、IOC委員に就任する。その後、日本人初のIOC副会長にも選ばれ、スポーツ界の発展に寄与することになる。=敬称略(監修 真田久筑波大教授 構成 金子昌世)