西郷さんにしかられぬよう 論説委員長・石井聡

風を読む

 大河ドラマ「西郷どん」で盛り上がる鹿児島で、大型連休前にちょっとした騒ぎがあった。

 西郷隆盛が眠る南洲墓地を会場に、ある知識人らのグループが大久保利通の法要を行おうとして待ったをかけられた。

 南洲墓地には、西南戦争で敗れた薩軍側の死者ら約2千人が弔われている。官軍に対して「賊軍」と呼ばれる人々だ。

 それでも、西郷とともに戦った末に敗れる歴史を生きた。多くの遺族は賊軍の子孫と呼ばれても恥じることはなく、誇りさえ感じている。

 だから、西郷らの聖地である場所で「敵」となった大久保のために行事をするなど、我慢がならない。その気持ちは、賊軍の末裔(まつえい)のはしくれである記者にも分かる。

 結局、当初案を断念し、政府軍と薩軍の双方の死者の慰霊を行うことで決着した。もっとも、同趣旨の慰霊祭は昨秋にも行われたという。

 たびたび引っ張り出される西郷さんは、目をぎょろりとさせて、大久保どんと顔を見合わせているかもしれない。

 そうしたこともひっくるめて、鹿児島県人には「薩摩がなければ維新も近代もなかった」という自負心が旺盛である。だから「維新150年」といえば他県よりも力が入る。

 元気が出るのは良いことだが「昔の人は偉かった」と満足しているばかりでは元勲たちにしかられる。鹿児島に限らず地方が抱える問題ではないか。

 明治維新は江戸幕府による統治を打ち破るため、地方が力を結集して政治体制を改革した。いま、国政では地方分権や地方創生が叫ばれている。だが、本気で地方に任せようとしていると思うのは、お人よしである。

 多くの権限が実際に地方に委ねられれば、国会議員は手柄を立てにくくなり、地元有権者に恩を着せられなくなるからだ。

 中央の施しをあてにするのではなく、規制を取っ払って自ら稼ぐ。特区というのも、本来そういうものではないか。

 その覚悟で地方を立て直し、国政の改革にも迫る切磋琢磨(せっさたくま)を見たい。きばれ。