嘉納治五郎と幻の東京大会(7)女子スポーツのさきがけ

オリンピズム

 40日を超える船旅の末に、日本選手団が五輪開催地のパリに到着して1週間ほどたった1924年6月15日、大阪で第1回日本女子オリンピック大会が開催された。女子選手の一般競技会への参加は17年に鳴尾運動場で行われた第5回陸上競技選手権ともいわれ、200メートルに男子に交じって出場したという記録がある。もっとも本格的な総合競技会としては、この日本女子オリンピック大会が初めてとみられ、陸上競技や水泳、バスケットボール、バレーボール、卓球などが行われた。

 当時、女性にとってスポーツはまだ遠い存在だったが、意外にも柔道は先駆的だった。嘉納治五郎が講道館柔道を創始したのは1882年で、女子の門下生を初めて受け入れたのは、その約10年後の93年のこと。最初の門弟、芦谷スエ子が講道館の高弟、富田常次郎に柔道を習いたいと申し出てのことだった。嘉納の許しを得た富田は麹(こうじ)町五番町の嘉納邸内の道場で指導を始め、さらに数人が指導を受けるようになっていった。

 もちろん、当初は手探りだったようだ。嘉納は教えを請う女性に、「女子の柔道については、経験も少ないし、果たしてその効果を認められるかは、まだ研究中だから、あなたも共に研究してみるというつもりで来てくれるように」と伝えたという。それでも実際の指導の積み重ねから、嘉納は効果を確信していく。後に「女子柔道は講道館柔道の真の姿の継承である」とまで語っており、「体力的に優れた男性による力技の柔道よりも、体力のない女性の柔軟さのなかにこそ真の柔道が受け継がれる」と説いた。

 こうした嘉納の進歩的な考え方は「スポーツを通して心身を向上させ、さまざまな差異を超えて理解し合い、よりよい社会を実現する」といったオリンピックの理想ともよく合致したのではないだろうか。

 パリ五輪前後から日本女性にとってもスポーツがより身近になっていく。初の海外遠征が行われたのもこのころで、1926年の第2回国際女子競技大会(スウェーデン)に人見絹枝が出場し、個人総合優勝を果たす。さらに、その2年後、人見は28年アムステルダム大会に日本女子として初めて五輪に出場し、800メートルで銀メダルに輝いた。女子選手初のメダルに沸いたアムステルダム大会では、男子も目覚ましい活躍で、日本の競技力向上を印象づけている。

 12年ストックホルム大会の陸上競技に2選手を派遣して始まった挑戦は、アムステルダム大会で6競技に43選手(うち女子1人)を派遣するまでになっていた。結果も著しく、男子三段跳びで織田幹雄が陸上で初めて優勝を果たすと、男子200メートル平泳ぎでは鶴田義行が競泳界初の金メダルを獲得。日本選手団は金、銀各2個、銅1個という活躍を演じ、国内でも次第に五輪への関心が高まっていった。東京に五輪を招致しようという機運が生まれていく。=敬称略(監修 真田久筑波大教授 構成 金子昌世)