嘉納治五郎と幻の東京大会(5)震災でスポーツの灯を消せない

オリンピズム

 1923年9月1日、巨大地震が関東地方を襲った。マグニチュードは7・9と推定され、10万人を超える死者、行方不明者を出し、住居焼失者は200万人超…。関東大震災だった。

 東京・京橋にあった大日本体育協会の建物も倒壊こそ免れたが、多くの書類や貴重な資料が火災によって失われた-と「日本体育協会 日本オリンピック委員会100年史」に記されている。さらに「100年史」によると、甚大な被害を負った中、同月30日には協会としての今後の方針が確認された。座長として方針をまとめたのは名誉会長となっていた嘉納治五郎だった。

 一、国民の士気を鼓舞するため、質素な形で11月中に全日本選手権競技大会を開催する

 一、来年開催のパリ・オリンピック大会に向け、今秋に第1次予選会、来春に第2次予選会を開く

 困難なときだからこそ、スポーツで国民の士気を高めよう、震災によってスポーツの灯を消してはならない-といった意思が打ち出された。10月1日、大日本体育協会名で出された「第8回国際オリンピック大会参加の宣言」でも改めてそうした思いがうたわれている。

 「今回の大震災は東京だけでなく日本全体にとって大打撃であり、国民が一致団結して速やかに回復させるよう努力すべきである。ただ、著しい向上を続けているスポーツ界が、今回のことで停滞してしまうのは将来にとってもいいことではない」と説き、「このような状況で大規模な派遣など望むべくもなく、優秀な者に限りパリへ送り、わが国スポーツ界の将来の発展に貢献できればと思うのでぜひご了解いただきたい」と訴えた。

 12年ストックホルム五輪に2選手を派遣して始まった日本の五輪参戦は、続く20年アントワープ五輪で15選手となり、テニス男子シングルスの熊谷一弥と、同ダブルスの熊谷、柏尾誠一郎組が初めてのメダル「銀」に輝く。手探りだった五輪参戦が、世界との実力差を感じとれるまでになっていただけに、パリへの参加は何としても実現したかったのだろう。

 震災後の決議通り、23年内に五輪派遣選手第1次予選会、翌年には第2次予選会が開催された。その結果、19選手が派遣されるが、この代表選手の中には、28年アムステルダム五輪男子三段跳びで、日本初の金メダルを獲得する織田幹雄も含まれていた。選手団を乗せた香取丸が神戸港を出港したのは24年4月27日。長い船旅で体力を低下させてしまった過去の苦い経験を踏まえ、船内に練習用マットや鉄亜鈴、円盤などを持ち込んだ。さらに途中、上海や香港、シンガポールなどで下船しては外国人との交流試合や練習にも励んだという。

 こうして40日を超える船旅ののち、6月7日にパリに到着。陸上競技とレスリングの選手は、この大会から設けられた「オリンピック村」に入った。大会後にマンションなどとして活用される現在の選手村施設とはほど遠く、合宿所のようなものだったようだ。日本勢は陸上、水泳、レスリング、テニスの4競技に参加して7月5日、開会式を迎えた。=敬称略(監修 真田久筑波大教授 構成 金子昌世)