【スポーツ茶論】心に残る鉄人の言葉 正木利和 - 産経ニュース

【スポーツ茶論】心に残る鉄人の言葉 正木利和

1987年6月、試合終了後、「2131」を記した花輪を手に観客の祝福に応える衣笠祥雄選手=広島
5度目のセ・リーグ優勝を決め、胴上げで宙に舞う広島・衣笠祥雄さん=1986年10月12日、神宮球場
大洋戦で現役最後となる通算504号本塁打を放つ広島・衣笠祥雄さん=1987年10月22日、横浜スタジアム
 かつて広島カープの広報室長を務めた池田博彦さん(87)がまだ記者だったころの話である。
 夏の甲子園球場のネット裏で、広島の木庭教(きにわ・さとし)スカウト(1926~2008年)といっしょに京都・平安高校(現龍谷大平安)-高知高校の準々決勝を見ていたとき、気づいたら、いつの間にか木庭さんがいなくなっていたのだという。
 木庭さんは1975年から始まる広島カープ黄金期の陰の立役者として、のちに「スカウトの神様」の異名をとった人物だ。
 「あのときはどうしたん、とあとで木庭さんに聞いたら、すぐに京都の実家に行って、選手のお母さんにあいさつしたというじゃあないですか。たまげました」
 その「神様」の目にとまった強肩・俊足・強打の捕手こそ先日、71歳で亡くなった衣笠祥雄さんだったのである。
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 いまでこそ、カープのユニホームのイメージカラーは「赤」だが、衣笠さんが入団したころの65年は深い「青」が基調だった。背番号「28」をつけ、内野手に転向した精悍(せいかん)な若者は、バネの利いた打撃とハツラツとしたプレーでレギュラーに定着してゆく。
 75年にユニホームのイメージカラーが「赤」に変わり、背番号も「3」になってホットコーナーをまかされるようになったときには、もうとっくに「若鯉(わかごい)」を卒業し、木庭さんが見込んだ通り主軸打者に育っていた。その後も2215試合連続出場の記録を打ち立て、87年にはプロ野球史上2人目の国民栄誉賞を受賞する大打者になる。
 そのころは、池田さんもスポーツ記者から球団の広報室長に転身していて、栄えある授賞式に衣笠さんと松田耕平オーナー(1922~2002年)の3人で出席、衣笠さんが首相官邸で、ときの中曽根首相に記念のバットをプレゼントするシーンにも立ち会った。
 「耕平さんは衣笠をわが子のようにかわいがっていましたねえ。授賞式に出席するのに、わざわざ新しい背広まであつらえるほどで。でも、少し(受賞は)早い、とも言ってました」
 衣笠さんの身代わりになったこともあったという。同じ年の新語・流行語大賞で衣笠さんのニックネームである「鉄人」が特別賞を受賞したのだが、多忙をきわめてどうしても出席できない本人にかわって授賞式に出席したのだそうだ。
 「そのときに本人のコメントを代読したんですが『鉄人は鉄人でも小さな鉄人です』というもので。会場では受けてましたよ」
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 浅からぬ縁をもつ池田さんが最も感銘を受けたのは、引退のときの「私に野球を与えて下さった神様に感謝します」という言葉だった。「(アフリカ系米国人の父をもつ)彼の生い立ちなどを考えると、長嶋茂雄が引退のとき後楽園で『わが巨人軍は永久に不滅です』とあいさつした言葉よりもはるかに深い」
 プロ入り直後は外車を乗り回して事故を起こしたりするなど、やんちゃなところもあった衣笠さんだったが、池田さんは「関根潤三さんら、優れた指導者たちに野球というものを教えられたことで、若い頃から自発的に人間形成をしていった稀有(けう)な人」と言う。
 だからこそ、洋画家の故中川一政氏ら多くの他分野の人たちとも交流し、広島大学で講演したとき「子供の夢を育てよう」と訴えた衣笠さんの早すぎる死を惜しむのだ。