5月1日

産経抄

 シベリアで3年間の抑留生活を送った。帰国後、松山市内で映画館を開いて成功したのが始まりだった。やがて来島どっくや佐世保重工業など、造船会社の再建を相次いで引き受け、「四国の大将」と呼ばれたカリスマ経営者が、故坪内寿夫氏である。

 ▼その豪快な生き方は、小説やテレビドラマにもなった。実は、坪内氏がライフワークとしていたのが、刑務所の受刑者の更生保護事業である。過酷な収容所生活を送った経験から、受刑者の待遇改善と社会復帰への思い入れが強かったという。

 ▼愛媛県今治市にある「松山刑務所大井造船作業場」を昭和36年に開設したのも、坪内氏だった。「塀のない刑務所」として知られ、居室に鉄格子はなく、建物も外から施錠されていない。模範的とされる受刑者約20人が、一般の工員たちと働いていた。先月8日に、この開放的な施設から逃走していた平尾龍磨(たつま)容疑者(27)が昨日、広島市内で逮捕された。

 ▼逃走事件はこれまでも十数件発生している。ただ地域住民からの目立った苦情はなかった。今回はそうはいかない。平尾容疑者が潜伏していたとみられる広島県尾道市の向島(むかいしま)では、窃盗事件が相次いだ。住民は外出を控え、不安とストレスが高まるばかりだった。島の観光にも大きな打撃を与えている。

 ▼事件を重く受け止めた法務省では、監視体制の見直しを急がざるを得なくなった。顔認証技術の導入や、受刑者への衛星利用測位システム(GPS)端末の装着など、逃走防止策が検討されている。

 ▼晩年、財産のすべてを失った坪内氏にとって、受刑者から届く感謝の手紙を読むのが何よりの楽しみだった。平尾容疑者は、坪内氏の信頼を裏切った罪の重さを、どれほど自覚しているのだろう。