嘉納治五郎と幻の東京大会(4)武道精神と五輪精神の融合を

オリンピズム

 「オリンピックを真に世界的な文化にする」-。1940年東京五輪開催の意義をこう説いた嘉納治五郎にとって、その意味とは講道館柔道により形成された武道的精神をオリンピック精神に組み入れることだった。

 嘉納が柔術に興味を持つようになったのは、13歳で東京外国語学校英語部に入学する前後だったようだ。体格に恵まれていなかった嘉納(成人時でも158センチ、58キロ)は、強くなりたいと、生来の負けん気から柔術を学ぼうと決心する。東京大学入学後に父の許しを得て修行を積み、いくつかの流派を学んだ後に、柔術に工夫を加えれば、武術のほかに「知育、徳育、体育として社会的にも有意義なものになる」と考えた。そうして1882年に創設したのが「柔道」だった。

 前年の81年に東大文学部(政治学と経済学を専攻)を卒業し、さらに人間の内面的な発達に関心を持ち、文学部哲学科で倫理学の研究を1年間続けた直後のことだった。また柔道創設の年には学習院の教員に就任しており、以降、学習院の教頭を経て第五高等中学校、第一高等中学校、そして高等師範学校長として教育に携わっていく。

 「教育は実に楽しいものだ。この味を覚えたものは他のいかなる楽しみもこれに及ぶものではない」。こうした言葉からも嘉納が心底、教育を愛していたことが分かる。また高等師範学校長就任後には課外活動としての運動部をまとめる組織、運動会(後に校友会に改編)を結成し、学生たちのスポーツ活動を奨励した。

 1915年に東京高師に4年課程の体育科を設置し、文科、理科と同等のものとしたのも嘉納が「技術の発達を計るばかりでなく能(よ)くその理論を解し、今日の進歩した方法を解得せしめる」と考えたからだった。技術的にたけた指導者ではなく、技術はもちろん、理論的な知識と応用力も備えた指導者の育成を狙ったのだ。

 アジア初の国際オリンピック委員会(IOC)委員としてオリンピック・ムーブメントに関わってからは、国内的には国民体育の振興を図りつつ、対外的にはオリンピック精神と武道精神とを融合させることを目指した。嘉納の武道精神は心身を鍛え、そこで得たものを社会生活に応用していくことを目指しており、心身の調和的な発達を求めたオリンピック精神と矛盾しないばかりか、発展的ですらあった。

 こうした嘉納が追い求めた理念は「精力善用・自他共栄」として明確化される。言い換えると「目的を果たすために最も効力ある方法を用いつつ、それを実生活に生かすことによって、人間と社会の進歩・発展に貢献すること」。また、他者に誠実に尽くしてこそ、自己の完成も社会の発展もなされると説き、他者を意識した活動を強調した。23年の関東大震災直後に、嘉納が復興のための道徳として訴えたことでもあった。=敬称略(監修・真田久筑波大教授 構成・金子昌世)