【オリンピズム】嘉納治五郎と幻の東京大会(2) 体育奨励、語学力…IOC委員に - 産経ニュース

【オリンピズム】嘉納治五郎と幻の東京大会(2) 体育奨励、語学力…IOC委員に

 駐日フランス大使のジェラールから突然、嘉納治五郎が会見の申し込みを受けたのは、1909年春のことだった。
 古代オリンピックゆかりの地、アテネのパナシナイコ・スタジアムで第1回近代五輪が開催されたのは1896年。以後、4年ごとに開催されている五輪を運営する国際オリンピック委員会(IOC)への参加の依頼だった。当時IOC会長を務めていたクーベルタンからの依頼に基づき、東京高等師範学校長の嘉納に白羽の矢が立ったのだ。
 嘉納が選ばれたのはなぜか。講道館柔道の創始者として知られていたことはもちろん、早くから青少年の体育・スポーツに関心を寄せ、98年からは東京高師で長距離走を奨励実施し、夏には水泳も取り入れていたこと。さらに豊かな語学力も魅力だった。嘉納としても「外国との交流促進」やスポーツを通して「国民体力の増強と健全な精神の育成」を図ろうと考えていたようだ。こうした狙いと五輪の理念に矛盾はなかった。
 ジェラールからの知らせを受けたクーベルタンは、1909年5月、ベルリンで開催されたIOC総会に諮り、嘉納をアジア初のIOC委員として推薦。翌年、日本は第5回ストックホルム五輪への招待を受ける。このときクーベルタンからは次のような要望も伝えられた。
 「オリンピック大会に参加する国は、それぞれスポーツの全国的統括団体をもっていて、これがそれぞれの国のオリンピック委員会(NOC)になっている。ついては日本も早急にこの種の団体を組織されたい」
 五輪への参加を決意した嘉納は、精力的に動く。まずは国民体育の普及と五輪への日本代表選手派遣の2つを目指して11年7月、大日本体育協会を創設し、会長に就任。続いて選手の予選会を実施する。同年11月18、19日のことだった。東京・羽田運動場で行われた予選会には91人の選手が参加した。
 注目のマラソン(25マイル=約40キロ)には、19人が参加して2日目の午後0時30分にスタート。「日本体育協会 日本オリンピック委員会100年史」によると、トラックを3周後に競技場をあとにし、東神奈川を目指して東海道をひた走る。役員と万一の場合に備えた医師を乗せた自動車1台、自転車4台がそのあとに続いた。降りしきる雨に寒気も加わって完走者は6人という過酷なレースになったが、気象条件とは逆に好タイムに沸く。優勝した東京高師の金栗四三のタイムは2時間32分45秒で、3位までが世界記録という快挙だった。
 予選、決勝を行った短距離では100メートル、400メートル、800メートルを東大の三島弥彦が制し、金栗とともにこの2人を翌12年ストックホルム五輪に派遣することが決まる。団長はもちろん、嘉納だった。これが初めての日本選手団の五輪参戦となる。=敬称略(監修 真田久筑波大教授 構成 金子昌世)