嘉納治五郎と幻の東京大会(1) 「アジア初」は信頼と尊敬の証し

オリンピズム
アジアで初めてIOC委員に就任した嘉納治五郎

 「日本のオリンピック代表 嘉納博士逝去す」-。1938年5月4日、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙には、こうした見出しとともに写真入りで嘉納の訃報が掲載された。

 「太平洋上の客船、氷川丸に乗船している日本人IOC委員 嘉納治五郎博士が、肺炎のため亡くなった。七七歳であった。彼は二カ月前のカイロでのオリンピック会議に出席し、帰国の途上であった。貴族院議員の嘉納は大日本体育協会の名誉会長でもあった」

 カイロで行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会では、40年の東京大会をどうするかが話し合われることになっていた。準備の遅れと中国との戦争状況を考慮し、IOCは東京に返上を暗に促していたという。アジア初となる東京開催は危機的な状況にあった。嘉納が訴えてきた東京開催の意義からすれば、到底受け入れられない事態だった。

 「近代オリムピック設立の意志は古代オリムピックがギリシャに限っていたのに対し世界のオリムピックにすることにある。欧州と米国のみのオリムピックではない。東洋でも行わねばならないといふのが最も大きな理由で、しかも日本位熱心に大会に参加してをる国は世界中に少ないではないか」

 また、33年に国際連盟を脱退した日本にとって、国際競技会を東京で行う意義は計り知れないという思いもあったのではないか。老齢を顧みずに、カイロに向かった理由でもあった。

 カイロ総会に出席した嘉納は「オリンピックの開催は政治的な状況などの影響を受けるべきではない」と訴えた。IOC関係者からも「教育者」として高く評価されていた嘉納の主張に異を唱えるIOC委員はいなかったという。東京開催への信任を得た嘉納は、さらなる支援を取り付けるべく、欧州と米国のIOC委員を回り、ようやくカナダ・バンクーバーから氷川丸に乗船し、帰国の途につく。息を引き取ったのは横浜帰着の2日前だった。

 嘉納とともに氷川丸に乗船していた外交官、平沢和重は「最後の十一日間といふものを文字通り起き伏しを共にした私は、(中略)心から東京オリムピックの成功を祈らざるを得ないのである」などと述べ、東京五輪への思いを強くしている。IOC委員からも逝去を悼むメッセージが相次ぎ、東京五輪支援の輪は広がっていく。欧米以外では初の五輪、東京招致決定は嘉納に対するIOC委員たちの信頼と尊敬の証しだった。そんな思いとは裏腹に、逝去から2カ月後、東京大会の返上が決まる。

 戦後、日本が再び五輪招致に挑んだ際、嘉納の人脈は大いに生きた。IOC会長には親しかったブランデージが就いており、59年のミュンヘンでのIOC総会で東京招致の最終演説を行ったのは氷川丸で最期をみとった平沢だった。

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 「幻の東京五輪」と呼ばれる1940年東京大会。圧倒的に不利な状況の中、「柔道の父」として知られる嘉納治五郎は世界を駆け回って招致を成功に導く。嘉納はなぜ五輪にこだわったのかを追う。=敬称略(監修 真田久筑波大教授 構成 金子昌世)