【日曜に書く】論説委員・河村直哉 戦後、遠ざけられたもの - 産経ニュース

【日曜に書く】論説委員・河村直哉 戦後、遠ざけられたもの

 不幸な宣長受容
 江戸時代の国学者、本居宣長(もとおり・のりなが)は桜を愛した。
 『菅笠(すががさの)日記』は、奈良・吉野を訪ねた紀行文。道中、雨が降ると吉野の桜はどうなっているだろうと気をもむ。着いてみると花は盛りを過ぎていて、「かへすがへすくちをしき」などと、子供みたいでほほえましい。
 作品のよしあしは別として、おびただしい歌も詠んだ。歌文集『鈴屋(すずのや)集』に収められた「吉野百首」は桜を多く詠んでいるし、桜の歌三百余首を集めた『枕の山』という歌集もある。桜が咲くと聞けば「心は山に入にけるかな」などと、こちらも純真である。
 けれどもそのどれほどが知られているだろう。戦争と結びつけられたある一首だけが突出し、それゆえに戦後、他は顧みられなかったのではないか。
 流布している表記で引くと、「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」。新渡戸(にとべ)稲造が『武士道』で引用し、この歌を武士道と結びつけた。戦争中、士気高揚の意図があらわな「愛国百人一首」にも入れられた。散る花と武人のイメージが重ねられたことだろう。
 戦後は反動が起こる。宣長に言及した本の、昭和55年の文庫化の際に中村真一郎が寄せた解説は、ある世代の「宣長嫌悪」について指摘した。宣長の復権は慎重に行わなければ「読者のアレルギーを刺戟(しげき)する」「生理的拒絶反応を示す者もある」。それほど遠ざけられていた。
 漢意(からごころ)、すなわち中国に感化されたさかしらな心への宣長の批判はよく知られているだろう。「皇国(みくに)の道を学ぶべき」という古学の入門書『うひ山ぶみ』では、「初学(うひまなび)の輩(ともがら)、まづ此(この)漢意を清く除き去て、やまとたましひを堅固(かた)くすべきこと」とされた。皇国という言葉も、戦後の風潮によって遠ざけられた。
 これは学問の健全な受容とはとてもいえない。宣長は戦争に使われただけである。冒頭に見たように、純真なほど桜が好きだった。漢意批判にしても、日本の古典に即して国の本来の姿を率直に見ることに徹したゆえ、と筆者は思っている。
 独立の思想
 漢意に関して、評論家の石平氏が最近の著書で宣長を「脱中華の日本思想史」という観点から論じていておもしろい。自己を中心にして周辺を野蛮と見る中華思想に対して、日本の思想はそこからいかに脱出するかを課題としたという。
 聖徳太子の時代、隋への国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」としたのは独立宣言だった。記紀は中国とは異なる日本の政治思想の伝統を作った-。石平氏はそう歴史をたどり、宣長の漢意排除で日本の思想、学問は中華との決別を告げるまでに進化したとする(『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか』)。
 確かに『古事記』の注釈をはじめとする宣長の仕事は、日本人のルーツと精神的な独立にかかわるものといってもよい。自らの出自を知らない者が、真に独立しているとはいえまい。
 いびつな姿
 以下、若干の私事など。
 関西に長く住んでいるので、ここ20年近く、2、3年に1度は花の時季の吉野を訪ねることをならわしとしてきた。
 人出が多いから、早朝に現地に着くよう出発する。午前中に上千本まで登り、人混みがさらに増すころには帰路に就く。
 理想はまず快晴であること。次に下千本が散り始めくらい、上千本が満開であること。運よくそんな日に当たり、朝の若い光を透かした花を見ていると、宣長の敷島の歌が素直な心情を歌ったごく身近なものに感じられる。同時に、戦後という時代のいびつな姿を思う。
 宣長の受容史に限らず、戦後の偏りを示すものは多い。唐突なようだが憲法もそうだろう。戦争への反動から、あつものにこりてなますを吹くがごとき空想的平和主義が受け入れられた。戦後の長い間、改憲論がタブー視され、いまだに根強い抵抗があるのも、宣長が戦後遠ざけられた状況に似ている。
 しかし占領下に連合国軍総司令部が作り、現憲法のもとになった草案を読むと、憲法が国家の独立自尊の構えを持っていないことは明らかである。9条は国家の主権としての戦争を放棄し、交戦権を認めない。権利を否定された国家が独立国といえるだろうか。
 森友学園文書の改竄(かいざん)問題があって、国会で改憲議論はなかなか進まない。
 花の春なのに気は重い。(かわむら なおや)