メルボルンの風(下)一艇ありて一人なし

オリンピズム
メルボルン五輪のボート競技エイト種目で準決勝に臨む日本代表、慶大クルーの衣非宏監督(右から3人目)と選手たち=1956年11月、メルボルン(岩崎洋三氏提供)

 メルボルン五輪での準決勝が始まった。1956年11月26日午後3時半。快勝した予選から3日後のことである。

 ボート競技のエイトは2千メートルでおよそ6分。「スタートをよくして前半で3分を切りたい。オーストラリア以外は離せるから、面白いレースになる」。監督の衣非(えび)宏は再び2位に食い込む思いでいた。

 だが、予想を超えた事態が起こる。会場のウェンドリー湖は川と違って穏やかだが、悪天候になると南極からの強風で湖面が荒れる。この日もクルーは天気を気にした。「強風がやまず、重苦しい空気が流れてきた。レース中も風の弱まるのを祈った」。衣非の狙い通り、日本とオーストラリアが先に出るが、ここから苦難が待ち受けていた。

 「このときほどオールに水がグッとひっかかり、ねっとりと引けたことはない。サッと水を割ってつかむ感じに見える方が前に進むと思った」と岩崎洋三は振り返る。

 湖の中央にさしかかると、徹底して軽量化を図ったボートが裏目に出た。横から強風が襲い、ボートは木の葉のように流される。コックスの江田利児が懸命にかじを引いてコースに戻ろうとするが、なかなか真っすぐに進まない。欧米の重量艇が軍艦のようにぐいぐいと先へ行く。結果は最下位の4位。予選より1分10秒以上も余計にかかった。

 予選の面影もなかったが、クルーに悔いはなかった。勝つこと以上の財産を五輪で得ることができたからだ。

 「外国選手はスポーツを楽しんでいる。日本なら感じられる、緊張感のあまりの重苦しい空気がない」「彼らの態度に外国と争う緊張感が緩むのを注意したが、予選で、フランスの背中を見て、その安心感がチェコスロバキアを追えなかった原因かもしれない」。世界との戦いをさまざまに感じ取った。

 湖のあるバララットはメルボルンから離れており、別に選手村が設けられた。ボートだけで海外の選手と交流を深めた。「世界の強豪と伍(ご)していくには交流を盛んにすること」「代表になったから、他国の選手たちと交流を深める。それが本当のオリンピック」。そうとも知った。

 猛練習についていき、「己に克(か)つ」、その一心だったクルー。母校の慶大では健康管理を医学部が支え、工学部がボートの設計に携わった。学部生だけでは得ることのできない友も得た。「これぞユニバーシティの力」。学生スポーツのあるべき姿を示した。

 「天の時、地の利、人の和」と岩崎は語る。そして、「一艇ありて一人なし」。クルーの絆をたたえた言葉が浮かぶ。クルーが力をそろえなければボートは出ない。社会に出ても通じることだった。

 2002年の世界マスターズ。五輪から46年、ウェンドリー湖にこぎ出したクルーにはもう一つ目的があった。他界した江田の遺言を果たすこと。仲間は遺骨の入った小さな陶器を湖にそっと沈めた。「準決勝には負けたが、もう一度、戦ってみたい」。静かな湖面に、ただ一つの心残りがこだました。=敬称略(蔭山実)