徳川慶喜の大坂城脱出に思う明治維新150年

中江有里の直球&曲球

 明治維新150年の節目を迎えた今年、各地で展覧会やイベントが開催されている。

 その前年の慶応3(1867)年の大政奉還・王政復古の大号令が出た後、江戸幕府の最後の牙城となった大坂城で起きた出来事を体感するイベントに参加した。

 江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜は大政奉還後、同年12月大坂城に入り、イギリス、オランダ、フランス、アメリカなどの公使と会見している。しかし年が明けた慶応4年、鳥羽・伏見の戦いにおける旧幕府軍の劣勢の報告を受けた1月6日の晩、慶喜はわずかな側近を連れて大坂城を脱出。この脱出ルートをたどるというツアーイベントだ。

 大阪は地図で見ると大阪城近くには寝屋川、堂島川、土佐堀川、大川など川が多い。まさに水の都。学芸員の説明を聴きながら慶喜がたどったであろう経路を選んで城外に出ると、八軒家浜船着場まで徒歩で向かった。

 『徳川慶喜公伝』によると慶喜は八軒家から川舟で天保山まで行き、大坂湾内に停泊していたアメリカ軍艦に乗り、最終的に幕府の軍艦開陽丸で江戸へ向かったという。

 参加したツアーは水上バスを利用した。時間の都合上、天保山までは行かず途中で折り返したが、それでも大阪城港に戻るまでに1時間以上要した。

 慶喜一行の舟は当然人力、その上夜の移動となれば視界も悪かっただろう。よくも逃げおおせたと感じる。城の後門を出る際は番人に「御小姓の交代」と偽ったというが、どこかで脱出を気づかれ、無事江戸に到着できなければ、歴史は変わっていたかもしれない。

 大坂城に残された幕府軍は翌日の昼頃には撤収し、米や日用品などを求める市民が城内に乱入し大混乱が起こった。まもなく本丸御殿などが出火し、主要な建物は焼失してしまった。

 慶喜の城脱出にはさまざまな評価があるだろうが、脱出の前月まで外交を行い、将軍としての責務を果たそうとしていたことは間違いない。脱出の経路はある程度たどれても、脱出中の慶喜の心境をたどるのは難しかった。

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【プロフィル】中江有里

 なかえ・ゆり 女優・脚本家・作家。昭和48年、大阪府出身。平成元年、芸能界デビュー、多くのテレビドラマ、映画に出演。14年、「納豆ウドン」で「BKラジオドラマ脚本懸賞」最高賞を受賞し、脚本家デビュー。フジテレビ「とくダネ!」にコメンテーターとして出演中。