メルボルンの風(中)負けたらどう弁解したらいいか

オリンピズム
勝った方が五輪出場となる決戦で京大(手前)を追う慶大=1956年8月12日、埼玉県戸田市の戸田ボートコース(岩崎洋三氏提供)

 メルボルン五輪の日本代表を目指す慶大クルーの戦いは1952年のヘルシンキ五輪にさかのぼる。このときのメンバーもエイト種目で代表の座を勝ち取ったが、予算の問題から4人乗りのフォアに削減された。エイトでの出場はそれ以来の悲願だった。

 しかし、その後、相次ぐ敗北でどん底にあえぐ。そこに登場したのが新監督の衣非(えび)宏だった。運動選手の基本に立ち返り、陸上での練習を取り入れて、筋力、持久力、柔軟性を徹底的に教え込む。「船に座っていればいいからボート部に入った」と話す先輩なら聞いて逃げ出したはずだ。

 次にこぎ方の改革。オールを水から抜く瞬間に力を入れていたのを、オールを水に入れるときに力点をおく漕法(そうほう)に変えた。しかも柔らかく無駄のない体の動きを教える。

 五輪代表は当時、大学ごとに争っていた。慶大がメルボルン五輪に出場するには、全日本選手権大会の予選トーナメント4試合を勝ち上がり、決勝リーグですでにシードされている東大、京大、一橋大の3校との総当たり戦で優勝しなければならなかった。

 衣非の下、鍛え直されたクルーは予選4試合を圧勝し、決勝リーグに進む。東大は卒業生も含む「オール東大」で五輪代表の大本命だったが、慶大は素早いピッチで快走して勝利。続く一橋大にも勝ち、残るは2勝同士で迎えた京大との決戦となった。

 このとき慶大は大きな問題を抱えていた。工学部との連携で水面を滑るような新型ボートを造り、これが快走を支えるのだが、木のオールが軟らかすぎて強い推進力が得られなかった。予選では出場しない京大からオールを借りられても、決勝リーグで京大と対戦するとなるとそうはいかない。同様のオールを使っている別の大学を探し、試合前夜に借りるきわどさだった。

 迎えた京大との決戦。56年8月12日午前11時スタート。距離は2千メートル。衣非の指示は「千メートルで水をあけるつもりで飛び出せ」。しかし、「スタートの京大」の異名を取る相手にどんどん離され、中盤でその差は実に24メートル。ここから「ラストの慶大」と呼ばれるクルーの反撃が始まる。

 主将、須永定博の脳裏にはいろんな思いが走馬灯のように駆けめぐった。「必ずオリンピックに行く。行きたかったらボートに乗れ」と後輩に言ったが、ここで負けたらどう弁解したらいいのか-。細かいスパートで追い上げる。

 さらに勝負をかけたいが、ただ一人、先を行く京大の動きが見えるコックス(かじ取り役)の江田利児は目の前でこぐ加藤順一の「まだまだ」のひと声にうなずく。じっと耐えて力を蓄える漕手(そうしゅ)。残り200メートルで江田がラストスパートの号令。解き放たれたかのように渾身(こんしん)のこぎで京大と並び、ゴールへ飛び込んだ。

 判定は慶大の勝利。その差は「1尺」約30センチ。京大は先行しても慶大を警戒し、ペースを落とせず、疲れが最後に出た。悲願を達成したクルーたち。勝負を知る加藤のひと声も江田との練習の成果として伝説となった。=敬称略(蔭山実)