【オリンピズム】メルボルンの風(上)これで日本も世界に認められた - 産経ニュース

【オリンピズム】メルボルンの風(上)これで日本も世界に認められた

メルボルン五輪のボート競技のエイト予選で、2位でゴールした日本代表=1956年11月、バララットのウェンドリー湖(岩崎洋三氏提供)
 「ひとこぎでたちまち感触がよみがえる」。あのときと同じ湖面。オーストラリアのメルボルンから西に車で2時間、バララットの街にあるウェンドリー湖に昔の仲間8人が集まった。2002年、ボート競技の世界マスターズに参加するためだった。
 1956年メルボルン五輪でボート競技のエイト種目に出場し、準決勝進出を果たした日本代表クルー。46年たってもオールをこぐ呼吸は乱れることなく、ボートは静かに滑るように湖の真ん中へと進んでいった。残る1人の思いも込めて…。
 クルーはその朝、メルボルンの空港に降り立った。監督の衣非(えび)宏、かじ取り役の江田利児、漕手(そうしゅ)の加藤順一、原正雄、武田泰彦、今村孝、比企能樹(よしき)、須永定博、渡辺靖国、岩崎洋三、補欠の佐々木亨の11人。戦後復興期にあった56年11月6日。4日に羽田をたって36時間近く、2度給油してようやくたどり着いたが、そのとき問題が起きる。
 戦争の影響でオーストラリアの対日感情が懸念された。選手も事前に現地での言動には注意をうながされていた。到着しても日章旗を手に降り立っていいものかどうか。幹部が議論し、選手に意見を聞くと、誰もが日章旗を手にすることを望んだ。
 「恐る恐るだったが、日章旗を持って飛行機を降りると、大歓声と拍手で迎えられた。印象的だった」。開会式翌日の予選まで17日。メンバーは空港から無事にバララットの選手村に入り、先に船便で送り出した五輪専用設計のボートで調整を重ねる。
 迎えた11月23日の予選。順風で湖面はさざ波が立っているだけ。クルーは安心した。距離は2千メートル。フランス、チェコスロバキアと準決勝進出となる2位以上を目指す。フランスは軍人クルーで、チェコスロバキアは日本と似た漕法(そうほう)。どちらも手ごわい。
 「2日前からかなり調子がよくなった」。監督の衣非はそれでも手応えはあった。選手に与えた作戦は「フランスをマークせよ」。とにかく2位に入ることを狙った。その通りにスタート直後はチェコスロバキアに次ぐ2番手。その後、先頭に出て、また抜き返されたが、そのまま2位でゴールする。まだ余裕を残しての準決勝進出だった。
 「フランスが出てくるとスパートして引き離した。3回はあったかな」。漕手は期待に応え、欧州覇者フランスの背中を見続けてこぎきった。
 「予選はみんなよくがんばった。チェコも最後は疲れ切っていた。うまくやれば1位だったな」。衣非は会心のレースをこう振り返った。そして、「これで日本のボート界も各国から認められた」と語る戦績だった。=敬称略
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 62年前、メルボルン五輪のボート競技のエイト種目で、日本初の準決勝進出を成し遂げた若者たちがいた。ノーシードから五輪代表決定戦を勝ち上がり、五輪出場をつかんだ慶大クルーである。彼らが五輪を通じて得たものとはなにか。長い時を超えてよみがえる記憶を追う。(蔭山実)