論説委員・鹿間孝一 平昌と母校のジャンプ台に馳せる子供たちの夢

日曜に書く
銅メダルを獲得した高梨沙羅の1回目のジャンプ=12日、アルペンシア・ジャンプセンター(松永渉平撮影)

 わが母校にはスキーのジャンプ台があった。

 北海道小樽市の道立小樽潮陵高校(旧制小樽中学)。校舎が建つ丘と、下にあるグラウンドとの高低差を利用した、20メートル級の小さな台だった。

 それでも台の上に立つと、高さと急傾斜に足がすくんだ。飛んだことはないが、ジャンプというのはとてつもない勇気のいる競技だと思った。

 戦争で消えたメダル

 日本で正式なジャンプ競技が行われたのは、大正12(1923)年に小樽で開催された第1回全日本スキー選手権大会である。優勝は16メートル10センチという記録が残っている。

 母校のジャンプ台がいつごろ設置されたかはわからないが、昭和初期には夜間練習のための照明がともされて、市民を驚かせたという。

 ここから数多くの名ジャンパーが育った。そのなかに安達五郎がいる。(以下、人名は敬称略で失礼します)

 小樽中学を卒業したばかりの安達は、1932年のレークプラシッド(米国)冬季五輪に19歳で出場し、8位に入った。世界が驚いた。

 日本が初めて冬季五輪に参加した前回のサンモリッツ(スイス)大会で、ジャンプでは最下位に終わった。それも優勝したノルウェーのタムスの記録73メートルに対して、39メートルと圧倒的な差があった。

 それまでのジャンプは棒立ちだったが、タムスは前傾姿勢を取り入れ、「近代ジャンプの父」と呼ばれる。4年の間に安達も学んで、スキーの先が鼻につくと評されるほどの前傾姿勢を身につけた。ドイツの新聞は、次は「アダチが勝つのではないか」と書き、一躍、優勝候補に挙げられた。

 だが、ガルミッシュパルテンキルヘン(ドイツ)大会で安達は転倒して敗れ、同窓の伊黒正次の7位が最高位だった。

 40年には札幌五輪が決まっていた。円熟期を迎える安達や伊黒らへの期待が高まったが、戦争のため中止になった。もし開催されていたら、冬季五輪で日本に初のメダルをもたらしていたかもしれない。

 小樽の隣の余市町にも、小さなジャンプ台がある。NHKの連続テレビ小説「マッサン」の主人公で、ニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝が私費を投じて建設した。

 「マッサン」の夢

 戦時中、余市中学の校長から、こう依頼された。「スキーのジャンパーは優秀な飛行士になる。空に舞い上がる経験が飛行訓練に効果的だ。ついては、中学生用のジャンプ台をつくってもらえないだろうか」

 スポーツ好きだった竹鶴は二つ返事で引き受けた。元オリンピック選手の設計で、中学のスキー部員も夏休み返上で作業に加わり、現在の余市高校の裏山にジャンプ台が完成した。「竹鶴シャンツェ」と呼ばれる。

 竹鶴はこの台からオリンピック選手が育つのを夢見た。それが最高の形で実現する。

 余市高校出身の笠谷幸生が、72年の札幌五輪の70メートル級(現在のノーマルヒル)ジャンプで見事に金メダルに輝いたのだ。しかも「日の丸飛行隊」が金・銀・銅を独占した。笠谷はニッカの社員でもあった。

 「『笠谷やりました…』というアナウンサーのはずんだ声を耳にしながら、色々な思いが私のなかを去来した。きびしい努力と精進で、日本スキー史始まって以来の快挙をやってのけてくれた。多くの名選手を生むのに竹鶴シャンツェが役立ったことに、ひとりで満足した」(自伝「ウイスキーと私」から)

 未来の五輪選手

 竹鶴は笠谷の優勝を記念して、新たに小学生用のジャンプ台を設け、「笠谷シャンツェ」と名付けた。長野五輪の個人、団体で金メダルを獲得した船木和喜や斎藤浩哉は、笠谷シャンツェでジャンプを覚えた。

 都会ではなかなかウインタースポーツに親しむ機会がないが、北国は冬こそスポーツシーズンである。

 道内各地にジャンプ少年団があり、子供たちが未来の高梨沙羅、葛西紀明を目指して練習に励んでいる。

 ジャンプだけではない。1月に亡母の法事で帰省した折に、おいが小学生の娘と息子のスピードスケート大会を撮影したDVDを見せてくれた。フォームはなかなか様になっていた。

 連日、平昌五輪の日本選手の活躍が伝えられる。子供たちの夢は、次代に大きな花を咲かせるだろう。(しかま こういち)